筑波大学 社会工学系

安田研究室 リプリントシリーズ

 

 

 

No.1990−01

No.1990−11

 

 

 

「安田八十五のトップシート対談」

 

 

 

by

 

安田 八十五 他

 

 

 

月刊誌「浜っ子」、

平成2年1月〜平成2年11月

 

 

 

〒305−8573 つくば市天王台1−1−1

筑波大学 社会工学系

安田 八十五 研究室

Dr. Yasoi YASUDA

TEL FAX 0298−53−5090

FAX 0298−55−3849

E-Mail: yasuda@shako.sk.tsukuba.ac.jp

Home Page: http://www5d.biglobe.ne.jp/~yasuda85/

 


 



まえがき:

 

この「安田八十五のトップシート対談」は、もう今から12年前の、月刊誌「浜っ子」の1990年(平成2年)1月号から11月号まで、毎月計11回行われた横浜各界各層のトップの方々との対談を取りまとめ、同誌に掲載されたものを電子保存したものです。すでに故人となった方も何人かおられます。

月刊誌「浜っ子」は、残念ながら、11月号で倒産・廃刊となってしまったため、中途半端で終わってしまいましたが、私には、横浜の将来を考えるとても貴重な機会でした。1990年4月に、横浜市長選挙があり、元建設省事務次官の高秀 秀信氏が、当選し、現在4期目再選をめぐって論争があり、何かの参考になればと思いご紹介したいと考えました。ことに、編集後記の私の一言は、今読み返すと改めて思い出すことが多いと言えます。

皆様方のご感想をお寄せください。よろしくお願いします。

 

200213日(木)

修正:2002116日(水

 

安田 八十五

Dr. Yasoi YASUDA

 

yasuda85@mtj.biglobe.ne.jp

 


 

「安田八十五のトップシート対談」

月刊誌「浜っ子」1990年1月号より11月号まで毎月連載

 

目次:

 

No.1 1月号 原範行(ホテルニューグランド社長)

       「21世紀に向け再生するヨコハマ」

 

No.2 2月号 柴田庸市(氷川丸マリンタワー社長)

       「横浜の観光拠点は氷川丸から出発」

 

No.3 3月号 對馬好次郎(相模鉄道社長)

       「横浜西口の再開発は街の地上化と川の利用」

 

No.4 4月号 岩崎ともみ(岩崎学園理事長)

       「横浜のファッションは街並」

 

No.5 5月号 ハンスパウリ(ブラウンジャパン社長)

       「私のオフィスはヨコハマ一の展望」

 

No.6 6月号 岡田吉朗(横浜岡田屋社長)

       「時代のニーズをつかむのが商売のコツ」

 

No.7 7月号 金子善一郎(サカタのタネ社長)

       「八重咲きペチュニアが各国進出のきっかけ」

 

No.8 8月号 吉村恭二(横浜YMCA総主事)

       「隣人の幸せを願う事が福祉の第一歩です。」

 

No.9 9月号 牛島俊郎(三菱地所副社長)

       「ランドマークタワーはMM21の象徴です。」

 

No.10 10月号 根本紀一(トーヨコ社長)

        「ビジネスは冒険、守勢では伸びません。」

 

No.11 11月号 松信泰輔(有隣堂社長)

        「「エコロジカル・シティ横浜」への提案」

 


 

21世紀に向けて再生するヨコハマ

安田八十五のトップシート対談:第1回

月刊誌「浜っ子」,19901月号, PP. 20-21

 

ホスト:安田 八十五 Dr. Yasoi YASUDA

1944年横浜生まれの生粋の「浜っ子」,現在(1990年時点)筑波大学社会工学系助教授

 

安田:『「横浜での国際会議開催数、非常に低いんですよね。コンベンション都市としての戦略という意味では、神戸に比べたら20年は遅れてる。ですから、もうちょっと横浜らしい展開が考えられないかなって気がするんです」』

 

ゲスト:ホテルニューグランド社長, 原 範行

原地所椛纒\取締役 潟zテルニューグランド・セゾン・ヨコハマ代表取締役社長

 

:『横浜の格式と伝統を象徴するニューグランド。西部セゾングループとの共同プロジェクト、MM21地区内でのコンベンションホールに隣接し、それに対応できる機能をもったホテル計画が注目されている。「ここ3年程で横浜のホテルの部屋は3倍増が見込まれる。業界は戦々恐々です」』

 

.建築とか開発の量を見ると、横浜は日本有数だが、MM21は独力ではできない。

 

安田 開港時代には、原三渓さんを含め色々な方が活躍されました。今、経済状況が変わってきて、特に昭和30年代の高度成長以降ですね。私はいつも言うんですが、横浜(港湾部)と横山(内陸部)と二つの性格があると。開港から高度成長前までは、港とその後背地である関内とか伊勢佐木等を中心に発展してきた。昭和30年代から、人口が増え320万人位になってますが、そのうちの200万人位が、東京の郊外化現象のなかで増加した分と言える訳です。横浜の丘陵部を開発して、ある意味で東京のベッドタウン。今東京圏といわれる60キロ圏で神奈川、千葉、埼玉含めた人口が3千万。日本の人口の25%が東京圏に集中している。機能的に分析しますと、横浜はそのサブエリア、それが実態面だと。それと開港以来の港湾都市の側面がある。我々専門家からみますと、一種の精神分裂症を起こしてるんじゃないかと。この現状と、みなとみらい21MM21)計画などに対して、経済人としてどう見ておられるか。お伺いしたいんです。

 まあ、私共は直接携わっている部分がありますので、滅多な言い方できませんが。一方において、東京からはみ出たものを受け止める格好の、自然な流れがあったという事。横浜人としての心境を振り返ってみますと、昔はね、横浜というのは全て時代の先端を行って、生糸にしても国のナンバーワン産業だった。それが戦後敗戦・接収という状況で非常に大きく立ち遅れました。ですから、横浜から皆逃げて行ってしまったのですね。最近は皆また帰ってきて……。あれは正直なものですよね、現金なもので、てっとりばやく言えばここへ来れば儲かると。昔はこんなところ居たって商売にならないと。東京に皆集中してしまえというので、支店がどんどん無くなって。行政自体、横浜の地元の経済に依存できない、という感じでしたね。まあ、これは我々の力が足りないのですから、仕方ないのですが。ところが今現在の時点で言いますと、建築とか開発の量からいきますと、日本有数じゃないですか。問題はどこまで横浜独力でできるかですよね。

安田 今後ニューグランドもセゾンと共同で、MM地区にホテルを。

 31階建てのコンベンションホールに隣接し、それに対応できる機能を備えたホテルを計画中ですが、横浜の地元企業が中央の大企業と共同でまとめるという新しい形をとることになりました。MM21はやっぱりフタをあけてみると、日本の有数の企業が主体になってやるというだけでは、とても残念だと思います。それでニューグランドが、このホテル計画で手を挙げた訳です。

安田 政令指定都市、10大都市の中で、昼夜間人口比で一番低いのが横浜な訳ですね。

昭和60年の国勢調査では90を切っている。この90100にするということで計算すると38万人の雇用を作らないといけない。で、それの半分、19万人の雇用を都心部で持つという事でMM地区の19万人という数字が出たんですね。私が疑問に思いますのは、単に昼夜間人口比的なもので、横浜の役割を考えていいのかどうか。それと、19万人の雇用規模と言いますと、新宿の副都心が4万人位なんです。あの高層ビル群の、大体45倍の規模のオフィス人口ですね。これの実現可能性ですね。もう一つは、本当に市民にとってプラスになる開発なのかどうか。その変はいかがですか。

 

2.横浜の国際会議の開催数は日本で7位、神戸の三分の一

 

 まあ、総合的な判断というのは難しいのですが、例えばコンベンションシティということを市は最近強く指向していて、コンベンションビューローもできました。横浜はコンベンション機能だってそなえたんだといえますね。一つの方向として、これは間違いないと思うんですよね。だけどそれだけで食っていけるか、それだけでMM21をうめていけるかというと、東京の13号埋立て計画もMM21の先にありますから楽観できません。

13号地の位置は、東京に出るのと横浜へ来る距離と変わらないんですよね。それと、今東京ではオフィスの家賃は坪7万円は出さないと借りられない。

我々の方は、今の時点で計画するものでも2万円とかですね。良いビルでも現在15千円位。今後充分通信網も発達し、しかもおそまきながら湾岸道路も56年後にはできると、横浜と東京臨海部との距離があまり違わなくなる。

安田 ただどうなんですか。冷静に考えて、東京の本社機能がMM地区に立地するとは考えられないと思うんですよね。

 私もそれ思ったことあるんです。ところが首都圏内の本社ならば……。

安田 関西系の企業がそうですね。名目上は大阪に、実態は今、全部東京に来てますからね。

 バックオフィスですね。

安田 それは可能性なくはないと思います。ただ日本中の都市がコンベンションをやってますね。横浜の国際会議の開催数は、日本で7位なんですね。非常に低い。神戸全体の三分の一。その意味では神戸に20年位コンベンション都市としての戦略が遅れていると思うんです。

 先祖からの遺産ってのは全部無くなっちゃいましたから。そこが難しい。ただ、開港以来、横浜は国際的だと思われている。国際会議場、コンベンションシティとしての認知は比較的うけやすい。それで、あとは、もうやっぱり施設の関係、ホテルの関係です。

安田 東京に近いといっても、幕張の方が有利ということはないですか。成田に近い。規模も大きいと。

 ただ、会議施設としての整備は横浜の方が進むと思います。それと景観、周辺の施設整備、いらした方の居心地。

安田 アフターコンベンションですね。

 それは、神戸・幕張より数段良いものができるということですね。ですから、横浜は良いんだよって言って一生懸命売り込むと。19万人(の雇用)の問題については、本当に確信を持って言える人というのは、そう現状ではいないでしょうね。ただ、これは私思いますけど、どこもかしこも日本全国、海に面してる所は全部ウォーターフロントになったら、別に横浜はもう、珍しくも、面白くもないですよね。その時にどうなるのかと。でもMM21を始めホテルもこれから続々と建ちますから大丈夫です。私は横浜のコンベンションシティは充分に実現可能だと思います。

(1989年127日、ホテルニューグランドにて。)

 

 


 



横浜の観光拠点は氷川丸から出発

安田八十五のトップシート対談:第2回

月刊誌「浜っ子」,1990年2月号, PP. 20-21

 

ホスト:安田 八十五 Dr. Yasoi YASUDA

1944年横浜生まれの生粋の「浜っ子」,現在(1990年時点)筑波大学社会工学系助教授

 

安田:『東京と同じことをやっても立地条件からいって、東京には勝てない。だから私はいつも横浜は、東京と反対のことをやれと言っているんです。もうちょっと個性的に。』

 

ゲスト:氷川丸マリンタワー社長,柴田庸市

神奈川県観光審議会委員 横浜商工会議所労働専門委員会委員長

(社)神奈川経済同友会幹事・他

 

柴田:『氷川丸は今年で還暦(60歳)を迎えます。つい2年程前に三菱重工でチェックしていただいた限りでは、あと25年は物理的に大丈夫だと。やはり60年も経ちますとだいぶデッキの木の部分が傷みますが、昔のようにチーク材に張り替えると、費用も天文学的数がかかりますね。』

 

1.港湾労務者が汗水流して働いているのを、塔の上から見物するなんて

 

柴田 氷川丸は、頭文字がHである事からH型シリーズとして、比枝丸、平安丸とともに造られました。当時、世界的に著名な柔道の加納治五郎先生が当船で亡くなられたり、チャーリー・チャップリンがてんぷらを初めて召し上がった場所であったり、エピソードが数多くあります。戦時中は、病院船、戦後は引き揚げ船とまさに大活躍だった訳です。その後、昭和36年に引退しまして、時あたかも横浜開港100周年にあたったんです。同時にマリンタワーも別会社として完成しまして、その後、昭和42年に両社が合併し、氷川丸マリンタワー株式会社として発足しました。ビジネス面では、観覧のみでなく、パーティ、結婚式、披露宴も行います。PRとして、当船は苛烈な戦争の中で生き残った唯一の幸運な船ということから、新婚の皆様にご安航を祈るといった説明もさせていただきます。

安田 私が昔横浜市から頼まれて調査したんですが、やっぱり一番横浜らしい所というのは山下公園なんです。また、観光施設を調査すると山下公園から直線的に遠くなると皆行かないんです。反比例的に減る所もあるんです。

柴田 そうですね。山下公園に隣接した氷川丸が横浜のシンボル的な扱いをしていただいているのでありがたい。氷川丸も係留に当っては港湾区域故に色々な問題もありました。山下埠頭自体が、実際に荷物の積み揚げを目的とした拠点ですからね。そこへ動かない船をドンと置いた訳ですからご苦労があったと思います。

安田 最近はいわゆるウォーターフロント開発が流行している訳ですが、氷川丸にしろ、マリンタワーにしろ当時のウォーターフロント開発だったと思うんですが、今と比べてどうですか。

柴田 昭和36年頃は、ウォーターフロントの開発という概念は、あまりなかった。むしろ単なる観光資源という感じだったでしょうね。

安田 観光問題が大きく取り上げられなかった時代で、日本経済も余裕がなかったですからね。当時港湾業界は相当反対したと思いますが。

柴田 港湾業界の藤木企業の藤木社長さんに会った時に「柴田さん、あの時は、私は大反対したんだよ。港湾労務者が汗水流して働いているのを、塔の上から見物するなんて、とんでもない話しだ。」と言うんですよ。私は海岸通りにいた人間としてその気持ちは分かりますね。

安田 「みなとみらい21」(MM21)が出来ますと、全体的に横浜の重心が高度成長以降横浜駅西口に移って、さらに関内地区からMM21地区に移っていく可能性がある。私は浜っ子ですから、関内の地盤沈下は、いろんな意味で心配しているんですが、その辺はどうですか。

柴田 おっしゃる通り相当危機感持ってます。しかし、MM21は横浜を挙げての大プロジェクトですから、これはどんどん推進しなくてはならない。この間、市の偉い方に言ったのですが、要するに、新しい横浜と明治以来の古い横浜という二つがあっていいのではないですかと。それぞれの特徴を持たせれば全体として、横浜の多面性が強調できると思います。

安田 ただ、どうですか。私はMM21地区も業務中心ではなく、もう少し新しい意味での観光というか、アーバンリゾート的な開発をしていくべきだという意見なのですが、そういう点はどういうお考えをお持ちですか。

柴田 ええ、そうすると、あそこは、アメリカのボルティモアの様なゾーンに変わるでしょう。そして、そういった開発に当たってどうも皆さん何時も同じ事を考えている様ですね。やれレストランをつくる、ショッピングゾーンをつくると、そうなると、金太郎飴のようにどこに行っても同じ。やはり、これだけの横浜の海という資源をドンと控えているのだから、やはり機能分担したらどうです。ある所は、ショッピング・センターとか、ある所はカルチャーセンターとか、そういうふうに交通整理をしてやらないとこの狭い所で同様なレストラン街があちこちにという事態になりかねません。 

 

2.キャンペーンを毎年やってて、日曜日なんか他県からのナンバーがすごいんです

 

安田 その辺のマスタープランが、横浜市にしろ、商工会議所にしろ、ちょっと弱いんじゃないですか。

柴田 そうですね。それを調整するのは、非常に難しいことかもしれないが、やはり市の経済局、都市計画局であり、あるいは観光協会であり、そういうゾーンの代表が集まって、そこでフリーディスカッションをすべきです。

安田 それは市役所とか商工会議所の中にそういう話し合いをする場というのはないのですか。

柴田 従来はあまりありませんね。ややそういう機運が出始めたのが駐車場問題で初めてです。駐車場は、例えば山下公園に500台収納できますが、山下公園を含めて、馬車道、元町周辺の路上駐車は一日6千台だそうです。あと10年経つと12千台になるという計算もでています。私は山下埠頭を日曜日だけでも解放したらどうかと思うんですが、いくら本船の荷役はないとしても国有地だとか、保税地域であるので、色々と問題がある様です。

安田 駐車場問題は、旧横浜市街地の一番大きな問題と言えます。

柴田 笑い話で我々観光協会中心に横浜へぜひいらっしゃいといったキャンペーンを毎年やってて、日曜日なんか他県からのナンバーがすごいんですよ。来ても、ヒョイとレッカー車で持ってかれてしまうんですよ。いらっしゃいと言っといて来たら持っていかれたんじゃあね。

安田 私は横浜市がMM21において業務核都市構想でオフィス19万人といいますが、東京圏でどこで働いてもいい訳ですから。その様に考えると、横浜の個性は違う所にある。オフィスタウンよりも広い意味での観光、レジャー。労働時間も減って来ますから。それと市民へのサービスの縮図空間とが考えられると思います。

柴田 おっしゃる通りです。MM21がオフィスを中心に埋まるのは相当難しいと思います。ですから、おっしゃる通り、街全体を一つの広義な意味でのウォーターフロント感覚を盛り込んで行くことは課題だと思います。

安田 それによって、港北区、緑区の人が浜の方へ来るモチベーションとか動機付けをするのも市民サービスですね。最後に社長も浜っ子として、若い浜っ子に期待することを−。

柴田 横浜ってどの様に生まれ、歩んで来たのかという歴史をじっくり見直して、そこからほのぼのとした郷土愛を若者たちに育てて欲しいと思います。

安田 今日は、ありがとうございました。

113日、氷川丸マリンタワー社長室にて)

 

 


 

横浜西口の再開発は街の地上化と川の利用

安田八十五のトップシート対談:第3

月刊誌「浜っ子」,19903月号, PP. 20-21

 

ホスト:安田 八十五 Dr. Yasoi YASUDA

1944年横浜生まれの生粋の「浜っ子」,現在(1990年時点)筑波大学社会工学系助教授

 

安田:『子供の頃を振り返って見ると、当時横浜は関内の尾上町とか桜木町が中心だったと思います。さらに戦後も横浜は東口が表玄関で、西口はなんか場末っていう感じでした。』

 

ゲスト:相模鉄道社長,對馬好次郎

相模鉄道且ミ長 横浜熱供給且ミ長 相鉄ホテル且ミ長 日本民営鉄道協会副会長・他

 

對馬:『私は46年から相鉄に入りました。当時社史とか、新聞記事を読んで見たら相鉄沿線の人々は東海道と中央道を連絡する鉄道だと言って、大変喜んでいるのですね。非常に高く評価されています。社会的価値は非常にありました。ただ、経営は非常に難しかった。二俣川から厚木方面はまだまだ過疎地でしたから。』

 

1.文化は「街を開発するために必要なんだ」という発想では出来ない所が難しい

 

安田 横浜に色々な鉄道が通っていますが、我々の感覚からいうと、相模鉄道が本当の地元の鉄道という感じがします。相鉄が西口開発に関して、高度成長時代から現代に果たした役割は非常に大きなものがあったと思います。最近は、いずみ野線方面等の開発をされているそうですが、現在横浜ではみなとみらい21など様々な開発を行っていますから、今後都心の時代になっていくでしょう。その辺をお話しいただけますか。

對馬 街の開発という場合、横浜西口の場合には、鉄道会社が開発しているというスタートがあるわけですね。海側のほうは海を通して外来の文化を中心にして発展してきていますね。僕はそこに根本的な違いがあるような気がして。これは今日初めてする話ですが。横浜という面から見ると、横浜のイメージは、文化というと“海”のイメージですから。これに対して、物の時代から質の時代という形でより生活に密着した開発が必要だという尺度から見ると、横浜西口は、鉄道というハードの中でターミナルを造り物を提供してきましたが、文化という面では片手落ちになるわけです。そこにやはり我々がこれから開発するときの大きな反省をしなければならないし、考えていかなければならないポイントがあるでしょうね。こちらが“文化”をつくるときには相当意識をして組み込まないとできないでしょうね。しかもその文化が、「街を開発するために必要なんだよ」という発想では、できていかないでしょう。その辺が非常に難しいところですね。たとえば本多劇場さんが来て、西口のこういうところに本多劇場が必要だと考えるか、本多劇場の、あのような考え方の文化が、どこの街においても必要だという感覚か。これによって随分違う気がしますね。道具として使うのか、そこからスタートして街を考えるのか。そのスタートの考え方を間違えるといつまでたってもダメなのかなあとは思います。

安田 その文化論に関していいますとね、私は浜っ子ですから、関内重視派というか、ノスタルジー派なんですよ。中学生、高校生はかえって西口の方が刺激的だと。大学生になると今度は、横浜はつまらない(笑)と、東京へ行ってしまうのですけどね。だから文化を、美術館とか劇場とか、狭い意味のそういう観点でとらえているとダメなような気がするんですけどね。

對馬 今おっしゃった、東京に行ってしまうということは重大なことで、これからの開発の考え方に絡んでくる話ですけれどね。

 みなとみらい21をコンベンションシティとして開発させようというのならば、アフターコンベンションのエリアがないですね。このために伊勢佐木町や野毛、本牧、新横浜などを一生懸命やるわけです。それももう一回目を転じて西口というのを見ますと、既に相当な資本が投下されている。ですから西口をアフターコンベンション・エリアと位置付けての開発が非常に必要なのではないかと。駅を中心とした街でね。それで、東京に行かなくても、大人−若い大人がいい意味で遊べる場所に。今、ないんですよ。ですからそういう街をつくるために、今の西口・東口との関連において今後の開発の基本的な問題となるだろうと。

 

2.地下街は自然がない空がない朝も夜も全部一緒です。街は上に出しておく必要がある

 

西口だけで多少潤いのある街をつくっていくとすると、鶴屋町2丁目。それから青木橋寄り。この方面が西口に残された…。

安田 フロンティア

對馬 北幸はオフィス、南幸の岡野町方面は今の物品販売、そうすると鶴屋町から台町のところに、これからの大人の遊べる場所という、その辺の開発をね。そしてさらに、それはみなとみらい21の開発のタイミングと合わせていかなければならない。だから、青木橋と平沼の問題、それに古河の跡地。そして今、相鉄で開発の進んでいる沿線の方までですね。今、東と西、こちらと海と山との間がみんな地下ですね。計画では今、市なども地下を考えておられるのでしょうが、鉄道の上をデッキができないかな、と考えますね。それで動線を変えてみる必要がある。今、全部地下の動線ですよね。それは夢物語かもしれないけれど、そんな形で西口を広げていく。この目的は、先程お話ししたみなとみらい21の国際会議へいらっしゃった後の受け入れ場所です。

安田 そこでリンクしていくということですね。アフターコンベンションを通じて。

對馬 それで、うちの旧本社ビルのところに24時間機能するものを考えたわけです。そうしたら、それはホテルなんですね。あの場所は、地下街で発展しましたからね。地下街というのは自然がないですね。空がない。朝も夜も全部一緒なんですよね。ああいう所は、早く店を閉める。単なる労働力の不足だけじゃなくて、朝から夜までは無理ですし、空がない。ですからやはり街を上に出しておく必要があるんですよね。

安田 これからはそうでしょうね。

對馬 街を地下にね。地下だけでは限度がある。鶴屋町とか岡野町方面には、幸いにして地下街がつくれないから、ちょうど地面、公園を。そして渋谷の公園通りのようなところっていうのは、どちらかというと帷子川ですか。埋め立ての上とか、あの辺かなと思うのです。今は南幸橋というのは、どちらかというと汚い街ですから、あの辺が綺麗になれば、すっかり変わって来る。鶴屋町の方面は、横浜地下街の持っておられる第2駐車場にまで上でやっていかなきゃならない。これは中長期的という形で一応開発していくのが一番いいのではないかと。ただそのときに、皆さんの共同事業になるわけです。今までうちのやってきたように買っては開発して…というのではなく。そのコンセンサスをどうやって取るか。

安田 それはやはり、リーダーシップというかイニシアティブみたいなものは…。

對馬 リーダーシップなしというより、必要ならば取るでしょうね。しかし、それによって権利を要求するものではありません。ちょっとキザっぽいですけど、それを明確にして。それは、企業としての面でどうなるかといえば、街がよくなれば、その中心的なデベロッパーは必ず良くなると思うんですね。そういう形で西口を広げるというようなことが再再開発ではないかと。そのときに、一番はじめに言われた横浜らしさというところが満足するかどうか分かりませんけれども、横浜にあって西口にないもの、それでいて皆さんが横浜を連想したときに西口に要求するであろうものを考えていかなければならないでしょうね。それが広い意味の文化でしょうね。

安田 西口5番街にセゾンが進出するという予定があるようですが、そのとき西口はどう変わるでしょうか。

對馬 流通でスタートした事業と鉄道でスタートしてきた事業では、根本的にノウハウが違うんですね。ですから鉄道を愛してくれるお客、セゾンを好きなお客、全く違うわけです。こうなりますと、これは大いに歓迎すべきですね。手を結んでやっていくべきです。掛け引きなく大賛成です。

 

 


 

 横浜のファッションは街並

 

安田八十五のトップシート対談:第4

月刊誌「浜っ子」,19904月号, PP. 20-21

 

ホスト:安田 八十五 Dr. Yasoi YASUDA

1944年横浜生まれの生粋の「浜っ子」,現在(1990年時点)筑波大学社会工学系助教授

 

安田:『私は都市問題が専門で、それとハマっ子なものですから、最近いわゆる横浜らしさが消えている気がします。昔は最先端のものが横浜から発信されていたわけですよね。横浜の街自体も発信機能が衰退して来ていると思うし、街の活力も何か足りない。』

 

ゲスト:岩崎学園理事長,岩崎ともみ

岩崎学園理事長、(財)横浜市美術振興財団理事 横浜ファッション協会副会長・他

 

岩崎:『創立は昭和2年なんです。私の母岩崎春子が、東京の学校の帰りに横浜へ洋服の材料を買いに立ち寄るうちに横浜が好きになって、学校を卒業してからずっと横浜です。当時はファッションの良い材料は輸入品で、横浜でないと買えなかったのです。』

 

1.横浜として独自のファッションを打ち出そうとするならば街並みしかないのでは?

 

安田 現在山手にある岩崎博物館は、どういうきっかけで造られたのですか。

岩崎 あそこは元々がうちの母と住まいを造ろうと、たまたま土地を購入したんですね。そうしたら、そこがゲーテ座の跡地だったというのがわかりまして、それなら住まいは先に延ばして、当時ちょうど創立50周年の後だったものですから、それを記念してということと、たまたま横浜市からゲーテ座の研究をなさっていらした、名古屋大学の升本匡彦教授をご紹介頂きまして。やはりそういうものを残したほうがいいのではないかということで、ゲーテ座と服飾博物館という形になったわけです。

安田 あそこはいろいろな意味で、岩崎学園にとって非常にシンボル的な施設だし、ゲーテ座の跡地ということで、横浜の特に山手にとってもシンボル的なものですよね。

 それではまずはファッション都市論のようなお話をお聞かせ頂きたいのですが。

岩崎 一番頭の痛いところですね。

安田 横浜の都市というのは本当にファッション都市なのかどうか、前から少し疑問に思ってまして。そういう意味では岩崎学園などが大いに広めて頂くといいなあと思ってるのですが。研究者から見ると、ファッションというのは、自己表現とか自己実現。これは人間しかできないわけですよね。だから人間の証明のようなものだと思うんです。それを今度もっと広く、社会全体、特に都市にそういう自己実現、自己表現というものがあるのではないかと。その辺実際にデザイナーとして、そして学校の理事長のお立場で、どのように考えておられるのか、ちょっとお伺いしたいのですが。

岩崎 そうですね。今、横浜はデザイン都市宣言をしてまして、横浜市をあげてそちらの方向に向かっています。これは横浜だけに限らず、日本中が今そういう方向に向いているわけですね。4月に日本ファッション協会が設立されます。これは日本全体のトータルのファッション協会なのです。横浜は、ファッション協会を創ったのが一番早かったのです。そのときも衣食住全てがファッションだという形で切り出したのですが、やはりある程度狭くとらえてしまったんですね。ですから銀行も入ってなかったので後から入ってきたし、横浜には本社機能はほとんどなく、全部支店ですよね。その辺が横浜の非常に苦しいところなのですが、今、やはり衣食住全部含めてという方向に向かっているわけです。今までは市の経済局と商工会議所と合同で運営しておりましたが、今度独立した横浜ファッション協会ができます。その中でどのように動いていくかというのは、やはりすごく難しいことなんですね。というのは、今横浜が明治時代のようにファッション発信基地とは言い難いということと、もう一つ、今ファッションというのは、東京ファッション、横浜ファッションなどという限られたものではないと思うのです。今は情報も早いし、この街でなければこのデザインはできないというものはないし、ですから、横浜として独自のファッションを打ち出そうとすると、やはり街並みしかないのではないかと……。

安田 うーん。

岩崎 そういう意味では横浜はロケーションもいいし、ファッションに向いている街並みを持っていますね。まあ限られた場所になると思いますが。そういうものをうまく活用しながら「横浜に行くならこんなスタイルで行きたいね」みたいなのが横浜らしさじゃないかなと思うんですね。それと今、横浜のファッション協会で毎年秋にデザインコンテストをやってますが、その応募者は全国から来ているわけです。その中で賞を取った人たちがこれからどんどん伸びてくれることを望んでいます。

安田 横浜市は、飛鳥田さんが市長のときから市役所の前などで都市デザインなどをやりだしたのですが。デザイナーとしては、横浜は街並みとして評価できますか。(笑)

岩崎 そうですね。横浜らしいというと月並みだといわれるのですが、やはり山下公園とか山手とか、あの辺というのは好きです。丘があって海があってと、起伏のすごくある街というのは、私はすごく好きなんですね。山手の道というのは全部坂なんですね。100年前から同じなんですよね。

 

 2.一人一人がファッション意識を持って目を肥やす。それが横浜の今後の行き方

 

安田 ところで、ご専門のデザインのほうから考えて、洋服などと都市とか街のデザインやファッションでは共通するものがございますか。

岩崎 それはやはり街があってのファッションだと思ってますから、これはすごくあると思うんですね。たとえばきれいな街だと汚い格好では歩きづらいというのが。よそから来る人たちも、横浜に行くのだからちょっとお洒落して行こうよとか、横浜の人たちも身綺麗にして街を歩くとか……。そんなようになっていくことが、横浜の街そのものがファッションだということになるのではないかと。

安田 東京より横浜のほうが、そういう意味では洗練されているとか。東京でも、六本木とか、遊ぶ場所がいっぱいありますが。

岩崎 今までは、たとえば飲食する場所が遊ぶ場所だったようですが、これからはそれだけじゃなく、散歩をする、何か観る、というものが遊びの一つになってくるのではないかと思うんです。そうなるとコミュニケーションもよく図れますし、人との対話がもっと楽しくなってくるのではないでしょうか。

安田 遊びに行くときは、どういうところに行かれますか。横浜は大人の遊び場が少ないと思うのですが。

岩崎 そうなんです。それが全然ないですね。

安田 横浜の東口から西口にかけてファッションのお店がここに来て急にワァッと増え過ぎて、結構東京のお店も入ってますし。そうなるとファッションで横浜らしさのようなものを求めるのはちょっと無理なのかなと思うのですが。

岩崎 横浜の西口にしても東口にしても、元町にしても半分以上は東京のお店なんです。そうなると東京も横浜もあまり変わらないですね。だからそれぞれがファッション意識を強く持って、目を肥やしていくということが、横浜のこれからのファッションなのではないかと。

安田 昔の横浜の女性はとてもお洒落だったのでしょうが、今、現代の横浜の女性はお洒落なのでしょうか。(笑)

岩崎 そうですね。結構お洒落な人は多いですけど。若い人はまだまだ無理だと……。若い人ってどこへ行っても同じなんですね。あれがやはり、今のリズムに合っているのでしょうね。

安田 ところで、みなとみらい21地区に進出される計画はありますか。

岩崎 目下考慮中です。

安田 ぜひ、ファッション工科大学のようなものを創って下さい。

 

 


 

私のオフィスはヨコハマ一の展望

安田八十五のトップシート対談:第5

月刊誌「浜っ子」,19905月号, PP. 20-21

 

ホスト:安田 八十五 Dr. Yasoi YASUDA

1944年横浜生まれの生粋の「浜っ子」,現在(1990年時点)筑波大学社会工学系助教授

 

安田:『もともと、ドイツというのは技術が高いので有名ですね。ブラウンは「品質とデザイン」が素晴らしい。創業者ミスターブラウンが苦心の末に開発された結果ですね。』

 

ゲスト:ブラウンジャパン社長,ハンス・パウリ

ブラウンジャパンの代表取締役社長。四代目の社長として’68年に社長に就任。

日本滞在は20

 

ハンス:『今、放映されているシェーバーのCMはもう8年ぐらいやっています。毎年新しい人が登場しますけど、コンセプトは8年前から変わっていません。東京に限らず、横浜ならスタジアム前とか、他にも広島や金沢などといった街で撮影しています。今年の目標年商額は320億円。達成できたらダルマに目を入れます。』

 

1.昔は日本の表玄関「横浜」には、多くの外資系会社があったのです。

 

安田 ブラウンの本社は、ドイツのどこの都市にあるのですか。

ハンス クロンベルグという街です。フランクフルトから20km程のドイツ郊外です。その前は、フランクフルトでした。

安田 フランクフルトは、私も2度程訪れたことがありますが、いい街ですね。公園が素晴らしい。

ハンス ええ。ですから、本社は静かなところにあります。このクロンベルグの街は有名な所で、著名人がたくさん住んでいます。日本で言えば軽井沢のような所ですね。

安田 日本での創業は何年ですか。

ハンス 1962年です。28年位になりますね。

安田 本社は、何年ぐらいですか。もっと歴史が古いのですか。

ハンス だいたい70年ぐらいになると思います。最初はラジオの部品を作っていました。その成功の後で、シェーバーを始めました。

安田 シェーバーを始めたのは最近ですか。

ハンス 第二次世界大戦の後です。開発はそれ以前から始めていましたが。

安田 今、シェーバーのシェアは、どのぐらいですか。

ハンス 台数的には、25%ぐらいです。

安田 日本では、シェーバー以外にも、いろいろな商品が出ていますが、年商はどのぐらいなのでしょうか。

ハンス 300億です。

安田 300億円というと、いい額ですね。

ハンス そうですね。何とか達成できました。

安田 社員は何名いらっしゃるのですか。

ハンス 今は日本の本社、営業所合わせて120名です。

安田 社員はそんなに少ないのですか。

ハンス ええ。販売会社だけで、生産はドイツでやっていますから。

安田 輸入のような形ですね。そうするとひとり当たりの売り上げの割合がすごいですね。高収収益企業ですね。

ハンス 下請けも使っていますけど。

安田 1962年に日本に進出したとき、横浜に本社(日本の)を構えたわけですが、本社は東京にだいたい置くところが多いですよね。「横浜」というのは、何か理由があったのでしょうか。

ハンス 昔は外資系会社は、横浜が多かったのです。最近も又、横浜に戻っている傾向にあるようですよ。東京は、家賃が高い。みなとみらい21地区とか、白山パークなどに、ドイツの会社も入るそうです。

安田 工場や研究所のある会社はそのようですね。ただ、「販売」は東京でないとやっていけないのではないですか。本社を横浜に置いていて困ることはありませんか。

ハンス それはありませんね。良い場所ですから(笑)。ベイブリッジがこんなに良く見えますしね。東京に比べれば、家賃は割合安いですしね。

安田 では、今後横浜から東京に本社を移される予定はありませんか。

ハンス 計画はないです。

安田 そうですか。では、先程話題に出たみなとみらい21地区がありますが、あそこに本社機能を移すという可能性はありませんか。

ハンス 今はまだその計画はありませんが、将来は、考えないこともありませんね。

安田 お住まいは根岸台の方ですとか。

ハンス 森林公園のすぐ近くです。そんな理由からも、本社のあるここ、山下町は近くていいですね。

安田 会社までは何分ぐらい掛かりますか。

ハンス 朝は、車で15分くらいでしょうか。

安田 東京だったら、1時間、いやそれ以上掛かってしまいますものね。

ハンス そうなんです。それが無駄な時間ですよね。

安田 ところで横浜は、住み心地の方はいかがでしょうか。

ハンス 私は大好きですね。

安田 具体的にはどういう所が。

ハンス そうですね。森林公園のまわりを昔はジョキングしましたね。それから中華街や、山下公園とかいい所がいっぱいありますね。それにしても、横浜は10年前と今を比べたら、全然違いますね。開発が目覚ましい。

 

2.ベイブリッジは素晴らしいけれど、首都高速の渋滞は解消しませんね

 

安田 では、反対に今まで横浜に住んでいらして困ったことなどはございますか。

ハンス 時々成田まで行くのですが、何時間も掛かりますね。今の首都高速は、横浜から羽田まではダメですね。高速道路は本当にダメです。何時間掛かるか知れません。

安田 そうですね。ベイブリッジを造っても、結局同じでしょう。生麦の所で又一緒になるのだから。

ハンス そうですね。全然ダメですね。ベイブリッジは素晴らしいのですが、その役割は……(笑)。

安田 だから横浜に国際空港を造ることを提案しているのです。東京全体の人口が3千万人ぐらいいるわけですが、それはヨーロッパの一つの国で600万人ぐらいの人口の所がありますよね。それが5ヶ国ぐらいの人口なわけです。なのに国際空港は成田一つしかない。金沢区とか横須賀のあたりに造って、高速道路でつなげれば、30分も掛からないでしょう。

ハンス それはいいですね。成田は横浜から100kmぐらいでしょうか。ちょっと遠いですよね。

安田 混んでいなければ1時間ぐらいで行くばずなんですよね。

ハンス 空いていても、1時間30分ぐらいではないですか。でも、それは夢ですね(笑)。

安田 日本人と仕事をしているうえでの裏話などはありますか。日本人はプライベートのためじゃなくてビジネスでのゴルフとか、会社帰りに一杯飲みにバーやクラブへ行ったりとかがありますが、そういうことについてはどう思われますか。

ハンス 私も時々会社帰りに一杯の酒をやりますから(笑)。

安田 なさるんですか(笑)。

ハンス みんなの気持ちよくわかりますよ。私もカラオケが好きで(笑)、時々歌いに行きますから。その辺で困るという程のことはありませんね。日本の業者とコミュニケーションを図る際のが時折り難しいです。いつも、割り引き、割り引き、と。それは外国ではほとんどありません。

安田 世界各国にあるブラウンの中で、日本のブラウンは、割り合いいい方なんですか。

ハンス ええ、とてもいいです。一位はドイツ。二位、三位はアメリカ、日本でだいたい同じです。

安田 それはハンスさんが一生懸命努力なさって、売り上げを上げていらっしゃるからですね。

ハンス いやあ、社員のみんなのお陰ですよ。




時代のニーズをつかむのが商売のコツ

 

安田八十五のトップシート対談:第6

月刊誌「浜っ子」,19906月号, PP. 20-21

 

ホスト:安田 八十五 Dr. Yasoi YASUDA

1944年横浜生まれの生粋の「浜っ子」,現在(1990年時点)筑波大学社会工学系助教授

 

安田:『店舗戦略が、ユニークですよね。普通川崎で成功されるとだいたい東京へ進出する。ところが横浜を選ばれた。そして、他のデパートよりもかなり早い時期に海外に店舗を出されていますよね。そしてどちらも成功なさっている。その点が素晴らしい。』

 

ゲスト:岡田屋社長,岡田吉朗

渇。浜岡田屋取締役社長。大正8年川崎市生まれ。

横浜商工会議所常議員中部支部長等を歴任。

 

岡田:『今年でちょうど創業100周年なものですから、磯子の横浜プリンスホテルで、楽しいイベントや100年という時代の流れをたどった展示会を催します。私が発明普及運動が好きな物ですから、「エジソン」の100年という、エジソンにまつわる品々の展示会も企画しています。今から楽しみです。』

 

1.戦前、祖父が脱サラをして堀の内で質屋を始めました。それが岡田屋の前身です。

 

安田 今年で創業百周年ということですが、今ある場所(川崎の)で呉服屋さんから始められたそうですね。

岡田 警察署長をしていた私の祖父が、世の中の変化を見て、42歳で今でいう脱サラをして、川崎の堀の内で「質屋」を始めたのがスタートです。その後、私の父が呉服部を作りまして。私で三代目になります。

安田 東京ではなく、なぜ横浜に進出したのですか。

岡田 戦争中、衣料の配給を誠実に続けていましたが、川崎も戦災によって焼け野原になりました。終戦後、物々交換を初めて、昭和21年に岡田屋呉服店として銀座に店をだしました。(昭和22年株式組織に)

安田 銀座から、川崎に戻られたのは、いつ頃のことですか。

岡田 川崎が焼けてしまい、復興には時間がかかると思ってました。ところがやはり地元ですから、配給制度が始まったのを機会に銀座から56年で川崎に戻り誠心誠意でお客様に配給しました。例えば丁寧にお客様ひとりひとりの住所、氏名を伺い、切符を切るという方法で。それから東芝や日本鋼管などの会社、工場にも良い品を他社と競って納めたりしました。

安田 DMや外商のはしりですね。

岡田 その当時から、私は16ミリカメラが趣味でしたので、町のニュースを撮って、それにタイトルを入れて、当時、テレビがない時代でしたから、ライブラリーでトーキーを借りてきて、学校や神社、町内会などで「無料映写会」を催したりしました。映画ぐらいしか、娯楽のない時代でしたからね。それで、映画技師を入れて、スピーカー放送するうぐいす嬢も二人入れまして、車でまわったり。それがPR活動のはしりみたいなものでしたね。仕入れたり販売したりだけではなくて、社会の人々のニーズにどう答えていけばいいかと常に考えてきました。そういうことで、「岡田屋っていうのは少し変わったことをやるな」と当時から思われていたでしょうね。

安田 その後、横浜に進出されたわけですが、それは、昭和42年ですか。

岡田 そうです。父の継を受けて、新しい感じのものを始めようと、川崎にデパートを作ったのですが、場所が駅前ということで、まわりの買収が難しく、拡張できにくかったのです。その頃、ちょうど横浜が西口駅前の開発を呼びかけていて。まだその当時は大手のデパートさんもあまり魅力を感じてなかったようでしたね。まあ、波に乗るまでには、5〜6年かかりましたけれど。

安田 横浜駅西口は、砂利置場というイメージが強かったですからね。

岡田 ただ、デパートでは、高島屋さんという大きな存在がありましたから、専門店とデパートの良さをミックスしたようなものにしたのです。

安田 でも、どうして東京ではなくて横浜へ進出されたのですか。大抵、成功したら東京を狙われますよね。

岡田 東京への進出については、一つの別会社で「ポニー丸岡」というのがあるんですが、昭和33年につくったもので、専門店ですから東京の様子もある程度知っておりますし、何といっても、相手がナショナル的に大きい都市ですからね、そういう中に途中から入っても勝負になりません。西口は結果としては名品街が当たったし。高島屋さんも当たりましたね。

安田 高島屋の前に三越に話があったそうですが、その当時から見たら、現在の姿は想像できなかったですよね。

岡田 そうですね。で、駅前だし、皆さんどうしてお入りにならないのか不思議だったんですよ。「これは、場所が良い」と思って、これはいける、と交渉にあたって、横浜に出店するに至ったのです。

 

2.横浜は新しいものを受け入れるという風土がある。それを生かした都市作りが。

 

安田 やはり「横浜」というのは、ブランドでしょうかね。

岡田 横浜のイメージというのは良いですよね。130年前、漁村だった頃から、外の人を大らかに迎え入れていた、文明・文化の発着地でしたよね。

安田 そうですね。オープンさとかね。

岡田 それに、市民は文化都市にしようという意識がありますよね。それにしては、行政は遠慮しているのではないでしょうか。

安田 そうですね。横浜市はもっと文化に力を入れた方がいいですよね。

岡田 一つには、港をもう少し大事にしてほしいということです。もっと港湾に対して関心を持ってね。もう少し貨物と観光とを整備して海岸を市民向けに生かす方法もありましょうね。ゆるゆるしていると、芝浦や千葉のウォーターフロントが出来上がってしまうでしょう。

安田 横浜の良さが、みんな向こうに行ってしまいますよね。

岡田 もう一つ大事なことは、ここ横浜駅周辺の問題ですね。東口から西口へいくのに車で10分以上かかるんですよ。この東西両側に、かつての近代都市の時代の運河がそのままの形であるというのはナンセンスです。といって水は残しておきたい。すでに、高速道路を上に走らせてしまったわけですから、その下に駐車場を造るとか、それに水と緑もあるようなものを。それから、平沼橋や青木橋を三倍ぐらいに広げると、東西の流れが多少良くなりますね。問題は、もしここで災害が起こったとします。すると、高速道路には車がつながっていて、火がつきますよね。すると、戦災のときのように、水の中に飛び込む人が出て沢山の被害者が出る恐れがあります。そのような事態において一日30万人の人が行き交うターミナルの安全性というものは、考えられているのかという事です。例えば橋の向こうとこちらとは区が違う、そんな身近な所で行政の壁があるわけです。

安田 安全の問題と時間の短縮という両面から、東西の流れを良くするということですね。

岡田 横浜駅周辺を含めた東西一帯横断人工広場を作るなどすべきでしょう。そうしないと、街は便利で安全で大きく利用されなくなりましょう。

安田 行政的にはどうでしょうか。

岡田 これは、日本のタテ割り行政が悪いんですよ。

安田 最後に横浜を本物の文化都市にする秘訣はありますか。

岡田 ロケーションもイメージも良い土地ですから、もっとみんなが「横浜が好き」といえる文化をつくっていけばいいのではないでしょうか。赤レンガ倉庫の有用活用や博物館などのきちんとしたものを、どんどん作っていったら良いのではないでしょうか。私は写真好き人間ですから、「写真博物館」などもできるといいですね。

安田 横浜は写真発祥の地ですものね。いいですね、写真博物館をぜひ実現させて下さい。

岡田 そういう文化的なもの、新しいものをどんどん取り入れるのが、「横浜」らしさですからね。(笑)


 

八重咲きペチュニアが各国進出へのきっかけ

安田八十五のトップシート対談:第7

月刊誌「浜っ子」,19907月号

 

ホスト:安田 八十五 Dr. Yasoi YASUDA

1944年横浜生まれの生粋の「浜っ子」,現在(1990年時点)筑波大学社会工学系助教授

 

安田:『私も自宅でキーウイフルーツを作っています。サカタさんの反町ガーデンセンターで買い求めました。前はぶどうでしたが、キーウイの方が作り易いそうですね。』

 

ゲスト:サカタのタネ社長,金子善一郎

潟Tカタのタネ代表取締役社長。大正15年生まれ。潟U・ホテルヨコハマ取締役等を歴任。

 

金子:『うちは創業以来、ずっと無借金経営なんです。商品が小さいものですから、「大企業になるような業界ではない、絶対に背伸びしてはダメだ」というのが創業者の考え方でした。研究農場や倉庫をつくるにしても全て自分の金でやれと、お陰様でそれを守り通しながら、資本金が今では135億円になりました。』

 

1.創業者は花好きで、“花を自分の生涯の仕事にしたい”と会社を起こしました。

 

安田 金子社長とサカタのタネとのご関係は、ご親戚ですか。

金子 いえ、親戚ではありません。東北大学の恩師に紹介されたんです。私は出身は福島県なのです。私の実家も、実はタネの会社を明治初期より経営しておりまして。私は長男なので、やはり家業を継ぐことを考えて、東北大学農学部へ進んだわけです。卒業間近、父から「少し他人の飯を食った方がいい」と言われまして。で、ここに就職しました。40年前のことです。ですから最初は、「横浜に住む」などとは考えてもみなかったんです。いずれ実家に戻り、品種改良をやろうと思っていたのですから。

安田 で、今ご実家はどなたが継いでいらっしゃるのですか。

金子 従兄弟に経営をゆずりまして、任せております。

安田 創業者の坂田武雄さんは、偉い方だったそうですね。

金子 ええ、大変立派な方で、私も人柄に惚れたといいますか。それに創業者が私を大変かわいがってくれまして。辞めるに辞められなくなってしまったのです。(笑)

安田 ああ、よくあるお話ですね。(笑)坂田武雄さんは、明治時代にアメリカ、イギリス、オランダに留学され、帰国後、農園を創業されたそうですが。

金子 東大農学部を出て、後にアメリカなどに留学し、帰国後六角橋で日本の植物を海外に紹介する輸出業という形からスタートしました。非常に植物が好きで、特に花が好きで“花を自分の生涯の仕事にしたい”と。それで成功されたのですから、非常に幸せな方だと思います。

安田 日本は「育種(品種改良)」という分野のレベルは高いのですか。

金子 そうですね。今のところ日本は、世界でもトップレベルだと言えるのではないでしょうか。というのは、日本は土地が狭くて、一定の狭い面積で最高の収穫を上げなければならないでしょう。ですから品質に関しては、要求が極めて厳しいですね。

安田 そうですか。やはり土地当たりの収益ということが関係してくるのですね。

金子 そうですね。一定の面積にかける労力、農薬などは世界でも一番じゃないでしょうか。肥料も大量に使いますしね。

安田 輸出から始まったとおっしゃいましたが、横浜が開港して、海外からいろいろなものが入ってきましたよね。こちらは逆に海外へ出すほうだったわけですね。

金子 そうなんです。でも、間もなく第二次世界大戦で苗木類の輸出が困難になり、種子の輸出入も始めました。創業者も研究者でしたから、品種改良を思いたったわけです。自らが研究し手を加え作り出したものを世界に広げたいと思ったそうです。そこで初めてできたのが、オール・ダブル・ペチュニアです。

安田 私は花のことは詳しくはないのですが、どういうものなのですか。

金子 野生のペチュニアは一重なんです。で、突然変異で八重が出てきたんです。その八重はめしべが退化してしまっていて、花粉はあるのですが、種子が出来ないのです。しかし、この花はナス科植物で、「株保存」といって、挿し木ができるんです。株を保存し、八重の花粉を一重にかける。するとその子どもは全て八重になるんです。結局八重の遺伝子は一重に対して優性だったんですね。それを発見し、全世界の注目を集めたわけです。

安田 そして今日に至っているわけですね。最近では、バイオテクノロジーとか、造園業にもかなり力をお入れになっているようですが。日本丸の庭園ですとか……。

金子 ええ、山下公園、反町公園、横浜公園のチューリップ(球根を一部寄贈)とか。

安田 横浜公園のチューリップは見事ですよね。綺麗ですよね。

金子 そうですね。名物になってるようですね。それから、洋光台の「こども科学館」の公園も、うちでやらせて頂きました。市内は他にも数多く手がけています。

 

2.プリンスメロンはハイブリッドの代表例 サカタの独占商品

 

安田 バイオテクノロジーの方は如何ですか。

金子 今、私共が売っているものは一代雑種(ハイブリッド)がほとんどです。

安田 ハイブリッドをご説明頂けますか。

金子 タネはハイブリッドと固定種に分かれていて、とっておいたタネを蒔くとまた同じものができるのが固定種で、一代限りのタネがハイブリッドです。ハイブリッドに力を入れる理由は昭和54年まで、植物には特許というものがなかったためです。我々が経営していくためには、他に真似できないものを作るしか方法がなかったのです。代表的なものは、プリンスメロンやアンデスメロン。これは、うちで品種改良したものです。

安田 そうなんですか。では我々が食べているプリンスメロンは全てサカタのタネさんのものなのですね。

金子 そういうことになります。ですからこんなに小さな会社でも研究費は年間20億円位です。タネというのは「ソフト」を売っているような感じなんですよ。例えばサカタで開発したハイブリッドというのは世界中どこを探してもサカタにしかないのです。

安田 独占ですね。

金子 で、これが生き物でしょう。ですから電気製品のようにA社もB社も同じようなものをつくるということがないんです。そこにタネの恐さというものがあります。

安田 そこに工場製品と基本的な違いがあるわけですね。いやあ、今日は勉強になりますね。(笑)

金子 (笑)そういう、他社で同じものを作れないというのが大きな特徴なんです。

安田 ところで、昨年は横浜で5番目に多額の税金を払っていらっしゃる高収益会社ですよね。横浜を舞台に活躍されるメリットってありますか。何故横浜なのか……。

金子 横浜でなくてはならないというものではないのですが。やはり創業者が横浜が好きで、会社も横浜で生まれ80年近く歩んできましたから。土地が高いのと道路事情の悪さには少し頭を悩ましていますが、永年住んでいると、やはり愛着がわくといいますか、横浜はいい所ですよね。

安田 道路事情が悪いのは、もっぱらの評判ですが、市民へのサービスのレベルについては、どう思われますか。

金子 良くやっている方だと思いますよ。昭和30年代頃には、本当に今の横浜は想像できない状態だったでしょう。西口の駅など、掘っ立て小屋でしたよ。昭和45年頃からでしょうか。急速に変わってゆきましたよね。最近は本当に綺麗になったと思います。横浜は小高い所が住宅地で低い所が商業区。緑と街とが調和して住みよい所だと思いますよ。

安田 これからも、地元企業として、東京資本に負けないよう頑張って下さい。


 

隣人の幸せを願う事が福祉の第一歩です。

安田八十五のトップシート対談:第8

月刊誌「浜っ子」,19908月号

 

ホスト:安田 八十五 Dr. Yasoi YASUDA

1944年横浜生まれの生粋の「浜っ子」,現在(1990年時点)筑波大学社会工学系助教授

 

安田:『文部省というのは、非常に実利的ですよね。すぐに役立つものでないとだめだとか、規格に合わないものはだめだとか。大学もそうですけどね。』

 

ゲスト:横浜YMCA総主事,吉村恭二

横浜YMCA総主事。1936年生まれ。(社)神奈川県青少年協会理事長等を兼務。

 

吉村:『日本の教育は間違っていると思います。全て文部省の直轄で、中央集権ですから。本来、日本の教育というのは、寺子屋のようなものであるべきだと思うんです。我々はそこに踏みとどまらなければいけないと考えています。そもそも、学習の場なんて、日常生活にちりばめられているんですよ。』

 

1.YMCAは仲間作りの場であって、競争が目的ではないのです。

 

安田 YMCAは国際的な組織なんですか。

吉村 はい。世界91ヶ国にありまして、それぞれが完全に独立した組織をつくっているんです。

安田 地方分権という組織ですね。ところで、神奈川県の規模はどの程度ですか。

吉村 非常に大規模です。日本には115ヶ所にありますが、県内に15の活動拠点がありまして、職員が320人、会員が4万人です。

安田 YMCAの歴史は古いんですか。

吉村 1844年、イギリスの産業革命が進む中、人間阻害が起きまして、それではいかん、とジョージ・ウィリアムスという青年がロンドンに創始しました。

安田 日本に入ってきたのはいつ頃ですか。

吉村 1880(明治13)年に東京の神田にできました。

安田 ほう、古いんですね。では、吉村さんがYMCAに入ったキッカケというのは。

吉村 中学2年の時に、ピンポンに誘われて(笑)。と申しますのも、YMCAはキリスト教の宗教基礎に立った理念を基にしながら、いろいろな国、社会の事情に応じて展開していこう、という開放的なものなんです。

安田 なるほど。その入口としてピンポンや水泳、予備校などがあるわけですね。

吉村 予備校といえば、YMCA80年前に大阪に予備学校というものを創りましたが、本来は実業青年のための夜学校だったのです。

安田 今は予備校も含めて、水泳教室、学習塾がビジネスとして成立していますよね。競合が激しいんじゃないかと思うんですが。

吉村 それは確かに感じます。でも、競合を通して本物の追求ができるし、自分達の主張もはっきりしてくる。参加する側も選択肢が増えるわけだし、結果的には本物を選ぶでしょうから、競合は大賛成です。その中に身を置く者としては、正直つらいですけど(笑)。

安田 YMCAの精神を最も表す活動、事業はどんなものですか。

吉村 日本で最初に体育館、屋内プールをつくったのがYMCAです。

安田 それは知りませんでした。

吉村 当時、日本のスポーツは、肉体、精神の鍛錬が目的で、それは大自然の下ですべきであると考えられていました。しかし我々は、スポーツとは仲間作りの場であると考えております。それで作り出したのがバスケット、バレーボールという団体競技です。そうすると全天候型のコートが必要だ、というんで体育館ができたのです。

安田 そういえば、日本は相撲、柔道、剣道と、一対一の競技が多いですよね。ところで、YMCAは本来ボランティア活動の組織だと思うんですが。

吉村 ボランティアと一口に申しましても、非常に多岐に及んでおりまして、我々は、留学生と関わるボランティア、ハンディキャップを持った子供たち自身がボランティア活動できるような養成講座を設けたりと、端からは見えにくいことを行なっています。

安田 経営的な問題はありませんか。

吉村 もちろん、事業なしに活動することは不可能ですから、水泳、英語学校、予備校を開く中で、我々の考え方に共鳴する人を増やすという、事業の中に理念を注入するという形をとっています。また、我々の主旨に賛同する方から賛助会費を頂くこともあります。

安田 なるほど。それが経済的な基盤になっているんですね。

吉村 逆に、国際協力基金として、毎年1千万円集めています。それを国内外で困難な状況にある人々の支援や、途上国で自立のための指導者養成に取り組んでいる団体に贈っています。

安田 それは神奈川県ですか。

吉村 ええ。全国のYMCAを合わせますと、大体1億円位集まります。

 

2.異質なものを排除している限り、横浜の国際化は有り得ない。

 

安田 次に、横浜の国際化ということに関して、お考えをお聞かせ下さい。

吉村 これは横浜だけではないんですが、行政が何でもやってしまうんですよ。その場その時だけ人を集めて国際交流だなんてアピールしてもね、それは交流じゃなくて単なるイベントにすぎません。

安田 行政の方も、お(かみ)意識があるんでしょう。一般市民にしても、行政に頼ってますよね。

吉村 よく、横浜は進んでいる、なんて言われますが、私はそうは感じていません。確かにペリーの来航に始まって、歴史的に見れば進んでいる面はありますが、本当に横浜に国際性があるとしたら、市だけのことを考えないで、世界全体のことを考えないといけません。

安田 それと、アーバンデザインで街の外観ばかりきれいにしても、浮浪者襲撃事件や、いじめによる自殺が起きたりする、そういう醜い本質が横浜にはありますよね。

吉村 そこなんです。熊本出身の国語教師が訛がきつくて困る、と父母から苦情がきたりするんです。それさえも受け容れられないで、国際化はないでしょう。

安田 その辺は、都市問題を研究する立場からすると、行政に問題があると思うんです。地方分権がないんです。区のレベルでさえ自治権がない。

吉村 全くです。教育委員会も一都市5人と決まっていまして、せめてそれに準ずる組織を各区に50人とか構成して、その意見を教育委員会が吸い上げるようにすればいいのですが、できていない。

安田 300万人もの人口を、市行政だけで統括しようとする自体がおかしいですよね。では、市の福祉の現状をどうお考えですか。

吉村 福祉というのは自分たち一人一人と、隣人の幸せを探求していくことだと思うんです。その点で、横浜における福祉の位置づけが十分熟していません。立派な福祉を作ってそれが福祉だ、というんじゃなくて、横浜全体が福祉社会として、人間的な「幸せ度」を高める論議を行っていかなければ。都市デザインにしても、思いやりが感じられません。横浜は起伏が激しいですから、お年寄りや身体の不自由な方にはきついんですよ。公園の面積、緑の占有率を考えましても、低いですね。

安田 公園も市民のニーズを聞かないで行政が勝手に作ってしまうんですよね。雑木林を切り取って、新しい木を植えて、原っぱに石を敷きつめたりして。本来、福祉にしても都市デザインにしても、ビジョンを市民レベルで積み上げていくものですよね。それをサポートするのが行政の役目なんです。

吉村 福祉という点で、これからのテーマは「市民全体が自発的に参画していく街づくり」です。それを横浜市には期待していますし、また、最もその可能性がある街だと思っています。

安田 行政まかせじゃなく、市民一人ひとりが、ということですね。


 

ランドマークタワーはMM21の象徴です。

安田八十五のトップシート対談:第9

月刊誌「浜っ子」,19909月号

 

ホスト:安田 八十五 Dr. Yasoi YASUDA

1944年横浜生まれの生粋の「浜っ子」,現在(1990年時点)筑波大学社会工学系助教授

 

安田:『私はどうも、市が民間の役割を制限してしまっているように感じます。催かな補助金で束縛したり、MM21地区186haのうち、半分近くを市有地化したり……。』

 

ゲスト:三菱地所副社長,牛島俊郎

三菱地所且謦役副社長。大正14年生まれ。東京大学法学部卒業。昭和27年同社に入社。

 

牛島:『MM21計画は、当社創立以来の大事業なんです。採算的にも非常に厳しく、ランドマークタワーだけで当社の年間投資額を軽くオーバーしてしまうんです。だから社内においても、他のプロジェクトを我慢してもらって……。今は会社一丸のMM21計画です。』

 

1.企業の一極集中を防ぐために、我々は立ちあがりました。

 

安田 今日は、みなとみらい21(以下MM21)計画についての話を中心に聞かせて下さい。

牛島 そもそもMM21とは、二分された横浜の都心を一体化、拡大強化するために三菱重工横浜造船所をあそこ(桜木町駅前一帯)から金沢区へ移し、跡地と埋立地計186haを開発しようという計画で、1983年に起工しました。完成は2000年を目途にしています。

安田 企業の東京集中という現状を考えますと、横浜の経済機能を強化しよう、という狙いは私、大筋では賛成です。しかし、生活重視の視点で計画すべきなのに、産業中心なんですね。

牛島 街づくりの中で生活重視という視点はもちろん大切だと思いますが、この街づくりは首都圏業務機能の分散という国家的命題に応える「業務核都市」としての位置づけが柱となっていることは事実です。ただ、これからの街づくりは機能のみを追求するのではなく、生活重視の視点を大いに入れて行かなくてはならないというのは同感です。

安田 それともう一つ、昼夜間人口比を100%にするために、市は就業人口19万人なんてとても無理なのに加えて、今は一都三県全てが通勤圏内だから、昼夜間人口比を論じること自体がナンセンスですよね。

牛島 昼夜間人口比が広がるのがいいとは思いません。かといって、必ずしも100%にならなければいけないとも思いません。それと、19万人という数字を聞いた時、確かに多いなと思いました。けれど不可能ではないと思います。時間はかかるでしょうが。

安田 最大のデベロッパーとして、三菱地所の役割は非常に大きいと思うのですが。

牛島 私ども、民間最初の計画として先導的な役割を担うわけですから、思い切った建物を建てなくては意味がない。MM21を象徴するような建物を造ってスタートダッシュを切ろう。それに他の企業が続いてくれれば良い、という考えで「ランドマークタワー(地上70階、高さ296mの日本一のノッポビル)」の建設に着工いたしました。

安田 桜木町はオフィスビルとしての立地条件はあまりよくないと思うのですが、テナントは決まっているのですか。

牛島 ランドマークタワーが完成しても、湾岸道路もMM21線(東横線横浜駅からMM21地区を経て元町に至る4.1kmの地下鉄)もまだですので、周辺が整備されるまでの数年は多少不便をかけることはあるでしょう。まだテナント誘致の段階に至っていないので確定的な事は申せませんが、基本構想発表以来、数多くの引き合いが来ており、手応えはあります。

安田 MM21線も渋谷と結ばずに丸ノ内と結ぶべきだったですよね。要は都心部との時間を短縮することが大切なのですから。

牛島 確かにそういう面があるかもしれません。ただ、新しい鉄道が出来ることの効果は大きいと思います。

安田 三菱地所のビジョンと申しますか、今後の展開をお聞かせ下さい。

牛島 MM21の街づくりの指針に沿って時代に応じたベストの開発を行なうというのが基本的な考え方です。ランドマークタワーの場合、着工が今年の3月で工期が3年ですから、当然3年先を読まなければなりません。ですが、工期が3年以上かかるのは初めてのケースですから、読むのも難しいと。それで先程のテナントの話に戻ってしまいますが、まだ決められる段階ではないのです。

安田 どうも私は、MM21計画が一般市民に知られないままに進められている気がします。まあ、これは市の全体的な計画にも問題があると思うのですが、一番のデベロッパーとして、三菱地所は市民への対応を考えていくべきだと思います。

牛島 直接市民と接触する機会は、必ずしも多くはありません。やはり行政等を通して市民の声を吸収するという形が多いです。しかし、商工会議所のMM21特別委員会や、民間企業の経営者の集まりなどで、我々からも話をさせて頂くし、お聞きしたりもしております。

 

2.他都市とうまく調整し合って、合理的なオフィス街をつくっていきたい。

 

安田 施設を市民のために開放するという計画はありますか。例えば安く貸してくれるホールとか。

牛島 70階建の69階に展望施設を作ろうと考えております。69階の全フロアを使って。池袋のサンシャイン60が大体、年間150万人ですから、それに負けないようにしたいです。エレベーターも池袋は分速600mですが、それを越えるものを考えています。せいぜい40秒を35秒にすることなんですが(笑)。

安田 要はナンバー1であるということですね。東京にはないものが横浜にあると。

牛島 2号ドックを復元して、イベントも可能な多目的広場にしようという計画もあります。これはユニークな施設になると思いますよ。もっとも、内部の調査や石の保管だけでも2030億もかかりまして、かなり決断のいる事でしたが。

安田 そういう、市民のための施設にはある程度行政が負担すべきですよね。

牛島 ええ、こうした歴史的な建造物の保存については市も積極的で、補助金のシステムもありますね。ただ、金額的にはやはり限界がありますので。

安田 ところで、幕張のジャスコみたいに、本社をそっくりMM21地区に移転、なんていう企業はあるのですか。

牛島 現段階では具体名を挙げるまでには至っていませんが、これから先には大いに可能性があると思っています。

安田 ただ、都心臨海も動き出しますし、かなり厳しくなるんじゃないでしょうか。特に、電話をする時「045」と市外局番を回す、この精神的距離は大きいですよね。

牛島 都心臨海部も企業にとっては非常に魅力的だと思いますが、それぞれの特性があり、役割分担があると考えています。

安田 せっかく横浜、幕張、大宮などが成立しつつある時に、東京がまた競争に加わってはいけませんよね。ただでさえ東京に集中しているというのに。

牛島 私どもも、丸ノ内に入りたくても入れない企業を誘致しようと考えています。一番理想なのは、本社ごと丸ノ内から移転する。次は、どうしても丸ノ内でなければ、という部分だけを残してあとは他へ、つまり機能的に分化して各都市へ展開していく。それをこちらで受け入れる。

安田 そうするとやはりMM21線の話になってしまいますね。丸ノ内と結ぶべきだったという。結局、市の読みが浅かったということですよね。

牛島 うーん、どうでしょうか(笑)。

安田 いずれにしても、三菱地所はこれだけ力を入れて、社運を賭けているわけですから、具体的な事業計画やプロセスを、もっと市民全員にアピールしていって下さい。


 

ビジネスは冒険、守勢では伸びません。

安田八十五のトップシート対談:第10

月刊誌「浜っ子」,199010月号

 

ホスト:安田 八十五 Dr. Yasoi YASUDA

1944年横浜生まれの生粋の「浜っ子」,現在(1990年時点)筑波大学社会工学系助教授

 

安田:『親が築きあげたものを食いつぶす二代目が多い中、ここまで成長なさった手腕には敬服いたします。若さと才覚だけでなく、やはり冒険精神ですね。』

 

ゲスト:トーヨコ社長,根本紀一

トーヨコ椛纒\取締役社長。昭和23年横浜生まれ。父豊氏の跡を継ぎ、昭和63年現職に就く。

 

根本:『苦労という言葉はあまり好きではないんですが、でも頑張ってきました。社員一人一人と対話をし、自分達が今何をすべきか討論し、とかく二代目が受けがちな偏見や誤解を解決してきました。でもここまでこれたのは、父親の放任主義のおかげだと思っています。』

 

1.横浜から、世界に通用する企業グループを作る為、CI導入をしました。

 

安田 「トーヨコ」は以前、「東横工業」という社名だったんですよね。

根本 ええ、私の父が昭和26年に創業いたしまして、当初は東京ガスの専任で管工事を請け負う、地味な会社だったんですよ。その後、横浜市の水道工事を請け負うなど、徐々に拡大はしましたが、所詮家業が、中小企業になったかな、という位の規模でした。

安田 それで昭和61年にCI導入をなさったわけですね。

根本 県内では一応名の通った企業ではあったんですが、やはりローカル色が強かったんですね。それで、総合エンジニアリング企業として全国区を目指そうと、CI導入に踏み切りました。

安田 グループ化の目的は何ですか。

根本 総合デベロッパーグループという形で、グループ化を図ってきました。近々、空調部門で上場会社とスケールメリットを目的とした合併を予定しています。今後もどんどん異業種の企業と手を結んで、横浜から世界に通用する企業グループを作っていきたいですね。

安田 海外に進出の予定はあるのですか。

根本 現在、ロンドンに本社を作りまして、ヨーロッパを主体にデベロップメント事業を始めている最中です。

安田 地元企業のこういう成長は、横浜では珍しいですよね。それに、横浜で成功すると東京に本社機能を移すのがパターンですから。ところで、今後はどういう方向で展開していくのですか。

根本 ちょうど今、グループ全体が確立して、もう一度切り換える時期に来ています。ハード部門とソフト部門をかけ合わせて、早い話が人間環境の最適な場を創造しよう、ということです。

安田 社会システム産業的なものですね。その中に港北ニュータウンにできた「地球環境研究所」があるわけですね。

根本 ええ。都市計画を考える為の研究所を作りたいと堂々思っておりまして。また今のように話題になる前から地球環境問題を考えていまして、地球保護のテーマにも積極的に取り組んでいく計画です。まずは環境デザインや空間プロデュースなどの、環境開発に関する総合的な企画開発事業を行なっています。提案された企画は行政に働きかけ、提案内容は定期的に展覧会形式で公開していく計画です。

安田 なるほど。ところで根本さんは、大学を卒業してからすぐに入社なさったそうですが、よく、二代目は一旦よその企業で修行を積んだ方がいい、と言われますが。

根本 それは大企業の場合でしょう。我々のような中小企業はすぐに入った方がいいんです。やはり企業家とサラリーマンは違いますから、ベンチャー精神を持つ為には一緒に働いた方が良いと思います。私も、古くからいる従業員と一緒に仕事ができて良かったと思っています。会社の隅々まで知ることができましたから。でも現在の様に大規模になった以上、息子に継がせる時は、よそへ修行に出すでしょうね。(笑)

安田 ほう、三代目は出しますか。

根本 ただ、三代目といっても経営者としては難しいでしょうね。オーナーならいいと思います。

安田 最近は日本の企業もサラリーマン経営者が多く、オーナー経営者が少なくなってますね。経営学でいうところの「所有と経営の分離」という。

根本 例えば私は建築も空調も素人ですから、専門家を社長に据えた方が伸びますよね。そこに私の経営理念を注入するのです。

安田 その経営理念とは。

根本 ちょっと抽象的ですが、会社を一つの舞台と考えて、自分の人生設計をしようと、各社の全社員にいつも言っています。そしてそれぞれの部門でトップになれ、と。

 

2.自分の好きなことをしながら、横浜のイメージを変えて行きたい。

 

安田 社員は皆さんお若いんですか。

根本 各社によって違います。研究所は平均年齢23歳位、空調部門は35歳位というように。それぞれスタンスも違えばポリシーも違います。それを私は全部把握しています。 

安田 求人状況はいかがですか。

根本 人材確保は毎年,いや毎日活発に行なっています。スカウトも積極的にしていますし、中途採用もしています。大体、私は学歴には全くこだわりません。人物重視で、爽やかな、柔軟性のある人材を求めているんです。

安田 今は枠にはまらない個性的な人生観をもった若者が多いですから、トーヨコにはぴったり合っているかもしれませんよね。そういえば、ラグビー部も快進撃しているようですね。

根本 社員には、私の目標に向かって一緒に突き進んで欲しいんです.これは、ラグビーの精神ですよ。それで創部したのです。

安田 マーケット状況をお聞かせ下さい。

根本 建設部門では、地元で一番になろうということで神奈川が一番多く、都市開発では長野や栃木といった地方で大型の不動産開発、都内でも都市型開発を行なっているところですし、空調部門は全国シェア、というようにグループ内でも各社によって違うのです。

安田 従来の事業の他に何か計画はおありですか。

根本 私の夢は後世に残るものを作りたいということなんです。いずれはファッション雑誌を作ったり、横浜を舞台にした文学賞を設けたりしたいですね。横浜アリーナでのイベントも計画中です。

安田 文化事業を通して社会に貢献しようということですね。

根本 いえ、そう言われると照れ臭いですから(笑)。まあ、自分の好きなことをやりながら、横浜のイメージを変えていきたいということです。

安田 そんなに今の横浜のイメージは悪いですか。

根本 悪いというんではないですが、どうもベンチャー精神に欠けるというか。資産家はいるんですが、企業家は少ないんじゃないかと思うんです。

安田 株や何だで資産を増やすのは上手いようですが,それは成長ではなくて膨張ですよね。

根本 少しオーバーな言い方ですが、横浜を冒険商人の街にしたいんです。これはかなり時間がかかるでしょうが。

安田 それは良いお考えですね。難しいでしょうけど、根本さんが先頭に立って頑張ってください。期待しています。


 

「エコロジカル・シティ横浜」への提案

安田八十五のトップシート対談:第11

月刊誌「浜っ子」,199011月号

 

ホスト:安田 八十五 Dr. Yasoi YASUDA

1944年横浜生まれの生粋の「浜っ子」,現在(1990年時点)筑波大学社会工学系助教授

 

安田:『横浜の高度経済成長は目覚ましいものがあります。でも、その為に犠牲にしたものがあまりにも多い。海を埋め立てたり、緑を破壊したり、今の横浜はキズだらけですよ。』

 

ゲスト:有隣堂社長,松信泰輔

蒲L隣堂代表取締役社長。大正5年横浜生まれ。昭和58年、神奈川文化賞を受賞。

 

松信:『今日の日本の近代化において、横浜の果たした役割は大きい。ただ西洋文化の窓口になっただけでなく、生糸輸出によって得た外貨で近代化を催し進めてきました。ですから横浜は開港をしたのではなく、日本の開国をしたのです。横浜の人はそういう誇りを忘れてはならないと思います。』

 

1.情報文化のアンバランスが国際文化摩擦、ひいては貿易摩擦に継がるのです。

 

安田 有隣堂は確かに出版もなさってますよね。有隣新書でしたか。

松信 はい。ですがあれで儲けるつもりはありません。まあ企業PRみたいなものです。

安田 横浜の開港時代をよく取り挙げているようですが。

松信 横浜の歴史を掘り下げていくと、いろいろなものが見えてくるんですよ。世界が見えると言ってもいい位です。そういう意味で開港当時のものを主に扱っていますが、これからは現代的なものも扱っていきたいと思います。

安田 洋書を不自由なく買えたらいいな、と思うのですが。横浜にはないですよね。

松信 みなとみらい21地区に国際的な書店を作りたいと考えています。しかし、当然輸入するわけですが、洋書の場合買い切りなんです。残が出ても返品きかないし、輸送料もかかります。だから全国マーケットを持たないと難しいのです。

安田 翻訳本は出ているんですがね。原語で書かれたものがない。

松信 現在の日本は輸出大国ですが、書物に関しては輸入一辺倒です。輸出なんて微微たるものです。貿易摩擦だとかジャパンバッシングだとかの根本は、この情報文化のアンバランスに問題があるためです。言葉の壁もあるでしょうが、それだけではない。

安田 私がイタリアの国際会議に出た時、イタリアの議員は国際会議だというのにイタリア語で発言するんです。自分の国の言葉に誇りを持っているんですね。だから、言葉の壁は何とかなると思いますが、やはり受信専門で、送信する能力がないんですね。

松信 そうですね。古典のようなものは翻訳して出していますが、日本でベストセラーになっている本は出ていないんです。むこうの人にしたって、今の日本人の考え方がわからなければ本の内容を理解できないですよね。

安田 そこで国際文化摩擦が生じて、貿易摩擦に継がっていくわけですね。

松信 日本の本を日本人が翻訳したのではだめなんです。むこうの人がむこうの感覚でやらないと、どうぢてもピントがズレてしまいます。「ヤクザ」「総会屋」なんてそのままでは通じませんよ。

安田 活字に限らず、横浜は文化砂漠だと言われていますが、何故でしょうか。

松信 やはり大東京の隣に位置している宿命じゃないでしょうか。東京のあとばかり追いかけてますからね。

安田 それが象徴されているのが、みなとみらい21計画ですよね。

松信 国際都市とか情報都市とか、24時間都市、首都圏の機能分散都市、なんていろいろな言い方をしていますが、外ばかりを見ていて、市民の都市という視点が欠落していますよね。あれだけの工事をやろうというのに、何故高架線をどうにかしようとしないのか、と言いたいですよ。

安田 あの計画には周辺の地域、商店街との関わり合い、調整が何も考えられていないんですよね。

松信 どうせなら国連のアジア本部を置く位すれば市民に対しても説得力があると思うのですが、それも考えていませんね。

安田 それと、模倣の精神ですね。横浜美術館なんてフランスの美術館にそっくりです。大理石をふんだんに使って。大体今頃あんなものを作ったって仕方ないと思いますよ。

松信 ローマ時代の遺跡が残っている西洋には、いくら金をかけて真似しても勝てっこないですよね。

安田 だから、そういうのとは違ったものを狙っていかなければだめですよね。

 

2.東京にはない、横浜ならではの街づくりがこれからのテーマですね。

 

松信 私の考えでは、これからの横浜は東京とは違った方向で進むべきであって、もう経済成長を追いかける時代は終わった。極端な話、ある程度経済を犠牲にしてユニークな街づくりをすべきだと思います。

安田 具体的にはどういう街づくりを考えてらっしゃるんですか。

松信 エコロジカル・シティという考え方、つまり横浜には海があり、丘があり、川があって緑がある。こういう点を徹底的に利用して、街のカラーにしていく。昼間人口が少ないなら少ないでいいじゃありませんか。むしろそれを逆に利用するんです。

安田 私も同感です。今、横浜の唯一の目玉と言ってもいいベイブリッジなんて、道路としては全く機能していませんが、港の雰囲気と相俟って、何とも美しいです。あの景観は決して東京にはないものですよね。

松信 そう、景観ですね。景観を大切にしていかなければ。磯子のプリンスホテルからの眺めなんて、ほとんど工場地帯ですからね。自然な環境が必要ですね。

安田 今でもあちこちで緑を削ってマンションを建てています。やはり経済優先なんですね。開発を許可する行政に問題がありますよね。

松信 今ならまだ間に合うと思います。これ以上の開発はやめるべきです。条例でも出ればいいと思うのですが、どうでしょうか。

安田 無理でしょうね。市長が建設省出身なんですから(笑)。

松信 先程の話じゃないですが、外ばかりを見ていないで、身近なことをしっかり見つめないといけません。私は、「トンボとアリ」という言い方を使うんですが、遠くを見るトンボの目と足元を見つめ、こつこつ地道に歩くアリの目が必要だ、と。今はトンボだけです(笑)。

安田 それも極楽トンボ(笑)。

松信 「緑と水と空」なんてよく言いますが、もう一つは「泥」。学校のグラウンドがアスファルトなんて。セミは土の中から出、トンボは水の中から出る。それを塞いではいけません。

安田 横浜がこの景観で育まれてきた精神的な文化、それは開放性だと思うんです。

松信 そうですね。出会いのあるロマンティックな港町。やって来るマドロスさんとの交流。開放性ですねえ。

安田 その出会いについても、今外国人はみんな東京に行ってしまいますからね。だから出会いもなくなりましたね。行政が何か仕掛けなければいけませんね。国際会議場だけじゃなく、一市民のプラスになるようなことを。

松信 それも東京にはないようなことをですね。横浜としての誇りを持って、オリジナリティー溢れる街づくりをしていく。

安田 いろいろな市民運動が起きているようですが、どれも政策決定には至りません。結局、一部の人が大資本や東京の官庁とくっついて動かしていって、どんどん市民から遊離してしまう。

松信 東京に頼っているのでしょうね。

安田 横浜における有隣堂さんの位置は重要だと思います。だからその辺の問題を改善して頂けるよう、期待しています。

 

 

 

 

 

 

 




安田八十五プロフィール

 

安田 八十五 (やすだ やそい)
  Dr. Yasoi YASUDA  57歳

環境政策学者(工学博士)
筑波大学大学院社会工学系教授
関東学院大学大学院経済学研究科講師
青山学院大学経済学部講師

1. 略   歴:
1944年8月 (昭和19年8月15日)(第2次世界大戦敗戦のちょうど一年前)(名前の由来、祖父が命名) 
横浜市中区生まれの生粋の「浜ッ子」(横浜4代目)、
米軍による空襲・接収のため、戦後横浜市南区に転居、伊勢崎町・横浜橋通り商店街近くの下町で育つ、
子供時代は、 横浜港での釣り・べーゴマ・野球等「遊びとスポーツ」に明け暮れる
1957年3月 横浜市立南吉田小学校卒業
1960年3月 横浜市立吉田中学校卒業
1960年4月 東京工業大学付属工業高等学校機械科入学       
ほぼ毎日安保闘争に出かけ、留年しそうになるが、社会問題に目覚める
1963年3月 東京工業大学付属工業高等学校機械科卒業       
横浜の海運会社に勤務したが、数理的社会科学を研究したいため、退社
1965年4月 東京工業大学理工学部入学(永井道雄(社会学・元文部大臣)・永井陽之助(政治学)・川喜田二郎(文化人類学)・鈴木光男(ゲーム理論)等の人文社会科学系教授の影響を強く受け、社会科学の研究に進むことを決意)
1966年4月 東京工業大学数学科進学(数学教育水道方式で知られていた遠山啓教授(代数学)に哲学的影響を受ける)
1969年3月 東京工業大学数学科卒業(オペレーションズ・リサーチ国沢清典教授の指導を受ける,卒論は確率的決定過程論)     
その後、東京工業大学社会工学科にて環境政策学及び社会システム論を研究、米国留学を経て
1974年4月 神戸商科大学経済研究所専任講師
1977年4月 筑波大学大学院環境科学研究科助教授
1981年8月 米国ペンシルバニア大学大学院地域科学研究科・ウォートンビジネススクール客員準教授(家族5人全員でペンシルバニア州フィラデルフィア市郊外に居住)
1983年1月 筑波大学社会工学系助教授        
を経て、現在に至る
2002年4月 関東学院大学経済学部・大学院経済学研究科教授に就任予定       
その他、埼玉大学教養学部講師・横浜国立大学教育学部講師等も兼任

2.専   攻: 
環境政策学、都市政策学、政策科学、循環型社会システム論

3. 学会活動・社会活動等:   
都市・地域政策研究会会長、横浜都市問題研究会代表(1977年10月設立)、経済政策学会理事、廃棄物学会評議員・廃棄物経済研究部会副会長、マクロエンジニアリング学会理事・ごみ問題研究委員会副委員長、NPO法人まちづくり情報センターかながわ(アリスセンター)の設立に参画し、運営委員(10年間)及び霞ヶ浦連続シンポジウム企画委員等としてまちづくりの実践と理論化に取り組んでいる。
また、ごみ問題にも関心が深く、土浦市・豊田市及びスーパーカスミ等で実施されているつくば方式(発券方式)空き缶回収リサイクルシステムの考案者として知られている。
その他、環境問題関係では環境政策研究会代表、「地球環境とゴミ問題を考える市民と議員の会」運営委員、神奈川県、横浜市、つくば市(副会長)、古河市、御殿場市(委員長)、新宿区(副会長)、杉並区、特別区、和光市等の廃棄物リサイクル関係審議会委員、環境省「リユースモデル事業調査研究会」委員長、経済産業省「アルミ缶リサイクルシステム調査研究会」委員長、国土庁(現在.国土交通省)「首都圏における水資源の将来調査研究会」委員等として活動している。

4.著   書:
@ 単著;
ごみゼロ社会をめざして―循環型社会システムの構築と実践―(日報、1993年、2001年)、
アメリカンリサイクル―環境問題に挑戦する米国の企業と市民―(日報、1994年、2000年)、
こうすれば東京は暮らしやすくなる―サラリーマンのための首都圏改造論―(太陽企画出版、1988年)、
都市解析論(地方自治情報センター、1974年)、
水環境政策論ー水環境管理に関する公共政策の総合評価の研究ー(仮題)(北大出版会、近刊)、
ごみが日本を滅ぼす―ごみから社会を見つめ直す政策提言―(仮題)(日報、2002年(近刊))
A 共著;
人類と地球・共存の可能性を探る(PHP研究所、1991年)、都市問題の基礎知識(有斐閣、1975年)、経済政策入門(有斐閣、1993年)、数理社会学(東大出版会、1972年)、環境科学U(朝倉書店、1989年)、環境科学V(朝倉書店、1990年)、病める地球をどう救うか(共立出版、1989年)、地球温暖化がわかる本(マクミランリサーチ研究所、1990年)、地域環境の新構築(ぎょうせい、1999年)他多数

5. 連絡先:
横浜自宅:〒2350036 横浜市磯子区中原31222
FAX 045-774-0687(ファックス専用:電話はつながりません)
E-Mail: yasuda85@mtj.biglobe.ne.jp
E-Mail: yasuda85@yahoo.co.jp
安田八十五個人ホームページ
http://www5d.biglobe.ne.jp/~yasuda85/


大学:〒305-8573 つくば市天王台1−1−1 筑波大学社会工学系   
TELFAX: 0298-53-50905582    
FAX(専用): 0298-55-3849, 0298-53-5070   
 E-mail: yasuda@shako.sk.tsukuba.ac.jp

 


「安田八十五のトップシート対談」

月刊誌「浜っ子」1990年1月号より11月号まで毎月連載

〈編集後記〉

 

1月:安田八十五(対談),毎週、横浜と筑波との間を車で往復している。ベイブリッジを利用しているが、時間は変わらない。観光の為に造ったと納得

 

2月:安田八十五(対談),今春、横浜市民は新しい市長を選べるようになった。今度こそ「浜っ子」が中心となって、官僚ではない市民派の市長を!

 

3月:安田八十五(対談),市長選の行方が気がかりだ。巨大都市横浜では、誰が市長になっても同じだとの声もある。だが市長は市民全体の顔なのだ!

 

4月:安田八十五(対談),花見の季節になると、三渓園はカラオケ持ち込みの人々でいっぱい。広い庭苑のあちこちでヘタな歌が聞こえるのにはまいる。

 

5月:安田八十五(対談),市長選が終わった。結果はともかく投票率は史上最低だ。党利党略にあけくれた政党に市民があきれたせいであろう。

 

6月:安田八十五(対談),毎月、横浜の様々なトップの人のお話しを聞き、感心することばかりです。読者の方もリクエストあれば編集部へ御一報。

 

7月:安田八十五(対談),私が主宰する横浜都市問題研究会を7月から再開。横浜の都市づくりに感心のある読者の方、ぜひ御参加をお願いします。


8月:安田八十五(対談),渋滞にはまり、イライラ運転中、後ろからドスンときた。相手は慣れきった様子で、テキパキと私に指示した。被害者は私だぞ。

 

9月:安田八十五(対談),高秀新市長が登場してから約半年になるが、新市長の顔が市民に見えてこない。横浜の将来ビジョンへの大胆な提案が欲しい。

 

10月:安田八十五(対談),日本のまちづくりは今まで男性中心で行われてきたが、これからは女性が積極的に参加していく時代になるべきだと思う。

 

11月:安田八十五(対談),ヨーロッパ各都市のゴミ拾場の調査を中心に回ってきた。ゴミのリサイクルに関してヨーロッパに学ぶ点が多い。

 

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