筑波大学 社会工学系
安田研究室 リプリントシリーズ
No.1990−01
〜
No.1990−11
by
安田 八十五 他
月刊誌「浜っ子」、
平成2年1月〜平成2年11月
〒305−8573 つくば市天王台1−1−1
筑波大学 社会工学系
安田 八十五 研究室
Dr.
Yasoi YASUDA
TEL& FAX 0298−53−5090
FAX 0298−55−3849
E-Mail:
yasuda@shako.sk.tsukuba.ac.jp
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Page: http://www5d.biglobe.ne.jp/~yasuda85/
まえがき:
この「安田八十五のトップシート対談」は、もう今から12年前の、月刊誌「浜っ子」の1990年(平成2年)1月号から11月号まで、毎月計11回行われた横浜各界各層のトップの方々との対談を取りまとめ、同誌に掲載されたものを電子保存したものです。すでに故人となった方も何人かおられます。
月刊誌「浜っ子」は、残念ながら、11月号で倒産・廃刊となってしまったため、中途半端で終わってしまいましたが、私には、横浜の将来を考えるとても貴重な機会でした。1990年4月に、横浜市長選挙があり、元建設省事務次官の高秀 秀信氏が、当選し、現在4期目再選をめぐって論争があり、何かの参考になればと思いご紹介したいと考えました。ことに、編集後記の私の一言は、今読み返すと改めて思い出すことが多いと言えます。
皆様方のご感想をお寄せください。よろしくお願いします。
2002年1月3日(木)
修正:2002年1月16日(水)
安田 八十五
Dr.
Yasoi YASUDA
月刊誌「浜っ子」1990年1月号より11月号まで毎月連載
目次:
No.1 1月号 原範行(ホテルニューグランド社長)
「21世紀に向け再生するヨコハマ」
No.2 2月号 柴田庸市(氷川丸マリンタワー社長)
「横浜の観光拠点は氷川丸から出発」
No.3 3月号 對馬好次郎(相模鉄道社長)
「横浜西口の再開発は街の地上化と川の利用」
No.4 4月号 岩崎ともみ(岩崎学園理事長)
「横浜のファッションは街並」
No.5 5月号 ハンスパウリ(ブラウンジャパン社長)
「私のオフィスはヨコハマ一の展望」
No.6 6月号 岡田吉朗(横浜岡田屋社長)
「時代のニーズをつかむのが商売のコツ」
No.7 7月号 金子善一郎(サカタのタネ社長)
「八重咲きペチュニアが各国進出のきっかけ」
No.8 8月号 吉村恭二(横浜YMCA総主事)
「隣人の幸せを願う事が福祉の第一歩です。」
No.9 9月号 牛島俊郎(三菱地所副社長)
「ランドマークタワーはMM21の象徴です。」
No.10 10月号 根本紀一(トーヨコ社長)
「ビジネスは冒険、守勢では伸びません。」
No.11 11月号 松信泰輔(有隣堂社長)
「「エコロジカル・シティ横浜」への提案」
安田八十五のトップシート対談:第1回
月刊誌「浜っ子」,1990年1月号, PP. 20-21
ホスト:安田 八十五 Dr. Yasoi YASUDA
1944年横浜生まれの生粋の「浜っ子」,現在(1990年時点)筑波大学社会工学系助教授
安田:『「横浜での国際会議開催数、非常に低いんですよね。コンベンション都市としての戦略という意味では、神戸に比べたら20年は遅れてる。ですから、もうちょっと横浜らしい展開が考えられないかなって気がするんです」』
ゲスト:ホテルニューグランド社長, 原 範行
原地所椛纒\取締役 潟zテルニューグランド・セゾン・ヨコハマ代表取締役社長
原:『横浜の格式と伝統を象徴するニューグランド。西部セゾングループとの共同プロジェクト、MM21地区内でのコンベンションホールに隣接し、それに対応できる機能をもったホテル計画が注目されている。「ここ3年程で横浜のホテルの部屋は3倍増が見込まれる。業界は戦々恐々です」』
安田 開港時代には、原三渓さんを含め色々な方が活躍されました。今、経済状況が変わってきて、特に昭和30年代の高度成長以降ですね。私はいつも言うんですが、横浜(港湾部)と横山(内陸部)と二つの性格があると。開港から高度成長前までは、港とその後背地である関内とか伊勢佐木等を中心に発展してきた。昭和30年代から、人口が増え320万人位になってますが、そのうちの200万人位が、東京の郊外化現象のなかで増加した分と言える訳です。横浜の丘陵部を開発して、ある意味で東京のベッドタウン。今東京圏といわれる60キロ圏で神奈川、千葉、埼玉含めた人口が3千万。日本の人口の25%が東京圏に集中している。機能的に分析しますと、横浜はそのサブエリア、それが実態面だと。それと開港以来の港湾都市の側面がある。我々専門家からみますと、一種の精神分裂症を起こしてるんじゃないかと。この現状と、みなとみらい21(MM21)計画などに対して、経済人としてどう見ておられるか。お伺いしたいんです。
原 まあ、私共は直接携わっている部分がありますので、滅多な言い方できませんが。一方において、東京からはみ出たものを受け止める格好の、自然な流れがあったという事。横浜人としての心境を振り返ってみますと、昔はね、横浜というのは全て時代の先端を行って、生糸にしても国のナンバーワン産業だった。それが戦後敗戦・接収という状況で非常に大きく立ち遅れました。ですから、横浜から皆逃げて行ってしまったのですね。最近は皆また帰ってきて……。あれは正直なものですよね、現金なもので、てっとりばやく言えばここへ来れば儲かると。昔はこんなところ居たって商売にならないと。東京に皆集中してしまえというので、支店がどんどん無くなって。行政自体、横浜の地元の経済に依存できない、という感じでしたね。まあ、これは我々の力が足りないのですから、仕方ないのですが。ところが今現在の時点で言いますと、建築とか開発の量からいきますと、日本有数じゃないですか。問題はどこまで横浜独力でできるかですよね。
安田 今後ニューグランドもセゾンと共同で、MM地区にホテルを。
原 31階建てのコンベンションホールに隣接し、それに対応できる機能を備えたホテルを計画中ですが、横浜の地元企業が中央の大企業と共同でまとめるという新しい形をとることになりました。MM21はやっぱりフタをあけてみると、日本の有数の企業が主体になってやるというだけでは、とても残念だと思います。それでニューグランドが、このホテル計画で手を挙げた訳です。
安田 政令指定都市、10大都市の中で、昼夜間人口比で一番低いのが横浜な訳ですね。
昭和60年の国勢調査では90を切っている。この90を100にするということで計算すると38万人の雇用を作らないといけない。で、それの半分、19万人の雇用を都心部で持つという事でMM地区の19万人という数字が出たんですね。私が疑問に思いますのは、単に昼夜間人口比的なもので、横浜の役割を考えていいのかどうか。それと、19万人の雇用規模と言いますと、新宿の副都心が4万人位なんです。あの高層ビル群の、大体4〜5倍の規模のオフィス人口ですね。これの実現可能性ですね。もう一つは、本当に市民にとってプラスになる開発なのかどうか。その変はいかがですか。
原 まあ、総合的な判断というのは難しいのですが、例えばコンベンションシティということを市は最近強く指向していて、コンベンションビューローもできました。横浜はコンベンション機能だってそなえたんだといえますね。一つの方向として、これは間違いないと思うんですよね。だけどそれだけで食っていけるか、それだけでMM21をうめていけるかというと、東京の13号埋立て計画もMM21の先にありますから楽観できません。
13号地の位置は、東京に出るのと横浜へ来る距離と変わらないんですよね。それと、今東京ではオフィスの家賃は坪7万円は出さないと借りられない。
我々の方は、今の時点で計画するものでも2万円とかですね。良いビルでも現在1万5千円位。今後充分通信網も発達し、しかもおそまきながら湾岸道路も5〜6年後にはできると、横浜と東京臨海部との距離があまり違わなくなる。
安田 ただどうなんですか。冷静に考えて、東京の本社機能がMM地区に立地するとは考えられないと思うんですよね。
原 私もそれ思ったことあるんです。ところが首都圏内の本社ならば……。
安田 関西系の企業がそうですね。名目上は大阪に、実態は今、全部東京に来てますからね。
原 バックオフィスですね。
安田 それは可能性なくはないと思います。ただ日本中の都市がコンベンションをやってますね。横浜の国際会議の開催数は、日本で7位なんですね。非常に低い。神戸全体の三分の一。その意味では神戸に20年位コンベンション都市としての戦略が遅れていると思うんです。
原 先祖からの遺産ってのは全部無くなっちゃいましたから。そこが難しい。ただ、開港以来、横浜は国際的だと思われている。国際会議場、コンベンションシティとしての認知は比較的うけやすい。それで、あとは、もうやっぱり施設の関係、ホテルの関係です。
安田 東京に近いといっても、幕張の方が有利ということはないですか。成田に近い。規模も大きいと。
原 ただ、会議施設としての整備は横浜の方が進むと思います。それと景観、周辺の施設整備、いらした方の居心地。
安田 アフターコンベンションですね。
原 それは、神戸・幕張より数段良いものができるということですね。ですから、横浜は良いんだよって言って一生懸命売り込むと。19万人(の雇用)の問題については、本当に確信を持って言える人というのは、そう現状ではいないでしょうね。ただ、これは私思いますけど、どこもかしこも日本全国、海に面してる所は全部ウォーターフロントになったら、別に横浜はもう、珍しくも、面白くもないですよね。その時にどうなるのかと。でもMM21を始めホテルもこれから続々と建ちますから大丈夫です。私は横浜のコンベンションシティは充分に実現可能だと思います。
(1989年12月7日、ホテルニューグランドにて。)
安田八十五のトップシート対談:第2回
月刊誌「浜っ子」,1990年2月号, PP. 20-21
ホスト:安田 八十五 Dr. Yasoi YASUDA
1944年横浜生まれの生粋の「浜っ子」,現在(1990年時点)筑波大学社会工学系助教授
安田:『東京と同じことをやっても立地条件からいって、東京には勝てない。だから私はいつも横浜は、東京と反対のことをやれと言っているんです。もうちょっと個性的に。』
ゲスト:氷川丸マリンタワー社長,柴田庸市
神奈川県観光審議会委員 横浜商工会議所労働専門委員会委員長
(社)神奈川経済同友会幹事・他
柴田:『氷川丸は今年で還暦(60歳)を迎えます。つい2年程前に三菱重工でチェックしていただいた限りでは、あと25年は物理的に大丈夫だと。やはり60年も経ちますとだいぶデッキの木の部分が傷みますが、昔のようにチーク材に張り替えると、費用も天文学的数がかかりますね。』
柴田 氷川丸は、頭文字がHである事からH型シリーズとして、比枝丸、平安丸とともに造られました。当時、世界的に著名な柔道の加納治五郎先生が当船で亡くなられたり、チャーリー・チャップリンがてんぷらを初めて召し上がった場所であったり、エピソードが数多くあります。戦時中は、病院船、戦後は引き揚げ船とまさに大活躍だった訳です。その後、昭和36年に引退しまして、時あたかも横浜開港100周年にあたったんです。同時にマリンタワーも別会社として完成しまして、その後、昭和42年に両社が合併し、氷川丸マリンタワー株式会社として発足しました。ビジネス面では、観覧のみでなく、パーティ、結婚式、披露宴も行います。PRとして、当船は苛烈な戦争の中で生き残った唯一の幸運な船ということから、新婚の皆様にご安航を祈るといった説明もさせていただきます。
安田 私が昔横浜市から頼まれて調査したんですが、やっぱり一番横浜らしい所というのは山下公園なんです。また、観光施設を調査すると山下公園から直線的に遠くなると皆行かないんです。反比例的に減る所もあるんです。
柴田 そうですね。山下公園に隣接した氷川丸が横浜のシンボル的な扱いをしていただいているのでありがたい。氷川丸も係留に当っては港湾区域故に色々な問題もありました。山下埠頭自体が、実際に荷物の積み揚げを目的とした拠点ですからね。そこへ動かない船をドンと置いた訳ですからご苦労があったと思います。
安田 最近はいわゆるウォーターフロント開発が流行している訳ですが、氷川丸にしろ、マリンタワーにしろ当時のウォーターフロント開発だったと思うんですが、今と比べてどうですか。
柴田 昭和36年頃は、ウォーターフロントの開発という概念は、あまりなかった。むしろ単なる観光資源という感じだったでしょうね。
安田 観光問題が大きく取り上げられなかった時代で、日本経済も余裕がなかったですからね。当時港湾業界は相当反対したと思いますが。
柴田 港湾業界の藤木企業の藤木社長さんに会った時に「柴田さん、あの時は、私は大反対したんだよ。港湾労務者が汗水流して働いているのを、塔の上から見物するなんて、とんでもない話しだ。」と言うんですよ。私は海岸通りにいた人間としてその気持ちは分かりますね。
安田 「みなとみらい21」(MM21)が出来ますと、全体的に横浜の重心が高度成長以降横浜駅西口に移って、さらに関内地区からMM21地区に移っていく可能性がある。私は浜っ子ですから、関内の地盤沈下は、いろんな意味で心配しているんですが、その辺はどうですか。
柴田 おっしゃる通り相当危機感持ってます。しかし、MM21は横浜を挙げての大プロジェクトですから、これはどんどん推進しなくてはならない。この間、市の偉い方に言ったのですが、要するに、新しい横浜と明治以来の古い横浜という二つがあっていいのではないですかと。それぞれの特徴を持たせれば全体として、横浜の多面性が強調できると思います。
安田 ただ、どうですか。私はMM21地区も業務中心ではなく、もう少し新しい意味での観光というか、アーバンリゾート的な開発をしていくべきだという意見なのですが、そういう点はどういうお考えをお持ちですか。
柴田 ええ、そうすると、あそこは、アメリカのボルティモアの様なゾーンに変わるでしょう。そして、そういった開発に当たってどうも皆さん何時も同じ事を考えている様ですね。やれレストランをつくる、ショッピングゾーンをつくると、そうなると、金太郎飴のようにどこに行っても同じ。やはり、これだけの横浜の海という資源をドンと控えているのだから、やはり機能分担したらどうです。ある所は、ショッピング・センターとか、ある所はカルチャーセンターとか、そういうふうに交通整理をしてやらないとこの狭い所で同様なレストラン街があちこちにという事態になりかねません。
安田 その辺のマスタープランが、横浜市にしろ、商工会議所にしろ、ちょっと弱いんじゃないですか。
柴田 そうですね。それを調整するのは、非常に難しいことかもしれないが、やはり市の経済局、都市計画局であり、あるいは観光協会であり、そういうゾーンの代表が集まって、そこでフリーディスカッションをすべきです。
安田 それは市役所とか商工会議所の中にそういう話し合いをする場というのはないのですか。
柴田 従来はあまりありませんね。ややそういう機運が出始めたのが駐車場問題で初めてです。駐車場は、例えば山下公園に500台収納できますが、山下公園を含めて、馬車道、元町周辺の路上駐車は一日6千台だそうです。あと10年経つと1万2千台になるという計算もでています。私は山下埠頭を日曜日だけでも解放したらどうかと思うんですが、いくら本船の荷役はないとしても国有地だとか、保税地域であるので、色々と問題がある様です。
安田 駐車場問題は、旧横浜市街地の一番大きな問題と言えます。
柴田 笑い話で我々観光協会中心に横浜へぜひいらっしゃいといったキャンペーンを毎年やってて、日曜日なんか他県からのナンバーがすごいんですよ。来ても、ヒョイとレッカー車で持ってかれてしまうんですよ。いらっしゃいと言っといて来たら持っていかれたんじゃあね。
安田 私は横浜市がMM21において業務核都市構想でオフィス19万人といいますが、東京圏でどこで働いてもいい訳ですから。その様に考えると、横浜の個性は違う所にある。オフィスタウンよりも広い意味での観光、レジャー。労働時間も減って来ますから。それと市民へのサービスの縮図空間とが考えられると思います。
柴田 おっしゃる通りです。MM21がオフィスを中心に埋まるのは相当難しいと思います。ですから、おっしゃる通り、街全体を一つの広義な意味でのウォーターフロント感覚を盛り込んで行くことは課題だと思います。
安田 それによって、港北区、緑区の人が浜の方へ来るモチベーションとか動機付けをするのも市民サービスですね。最後に社長も浜っ子として、若い浜っ子に期待することを−。
柴田 横浜ってどの様に生まれ、歩んで来たのかという歴史をじっくり見直して、そこからほのぼのとした郷土愛を若者たちに育てて欲しいと思います。
安田 今日は、ありがとうございました。
(1月13日、氷川丸マリンタワー社長室にて)
安田八十五のトップシート対談:第3回
月刊誌「浜っ子」,1990年3月号, PP. 20-21
ホスト:安田 八十五 Dr. Yasoi YASUDA
1944年横浜生まれの生粋の「浜っ子」,現在(1990年時点)筑波大学社会工学系助教授
安田:『子供の頃を振り返って見ると、当時横浜は関内の尾上町とか桜木町が中心だったと思います。さらに戦後も横浜は東口が表玄関で、西口はなんか場末っていう感じでした。』
ゲスト:相模鉄道社長,對馬好次郎
相模鉄道且ミ長 横浜熱供給且ミ長 相鉄ホテル且ミ長 日本民営鉄道協会副会長・他
對馬:『私は46年から相鉄に入りました。当時社史とか、新聞記事を読んで見たら相鉄沿線の人々は東海道と中央道を連絡する鉄道だと言って、大変喜んでいるのですね。非常に高く評価されています。社会的価値は非常にありました。ただ、経営は非常に難しかった。二俣川から厚木方面はまだまだ過疎地でしたから。』
安田 横浜に色々な鉄道が通っていますが、我々の感覚からいうと、相模鉄道が本当の地元の鉄道という感じがします。相鉄が西口開発に関して、高度成長時代から現代に果たした役割は非常に大きなものがあったと思います。最近は、いずみ野線方面等の開発をされているそうですが、現在横浜ではみなとみらい21など様々な開発を行っていますから、今後都心の時代になっていくでしょう。その辺をお話しいただけますか。
對馬 街の開発という場合、横浜西口の場合には、鉄道会社が開発しているというスタートがあるわけですね。海側のほうは海を通して外来の文化を中心にして発展してきていますね。僕はそこに根本的な違いがあるような気がして。これは今日初めてする話ですが。横浜という面から見ると、横浜のイメージは、文化というと“海”のイメージですから。これに対して、物の時代から質の時代という形でより生活に密着した開発が必要だという尺度から見ると、横浜西口は、鉄道というハードの中でターミナルを造り物を提供してきましたが、文化という面では片手落ちになるわけです。そこにやはり我々がこれから開発するときの大きな反省をしなければならないし、考えていかなければならないポイントがあるでしょうね。こちらが“文化”をつくるときには相当意識をして組み込まないとできないでしょうね。しかもその文化が、「街を開発するために必要なんだよ」という発想では、できていかないでしょう。その辺が非常に難しいところですね。たとえば本多劇場さんが来て、西口のこういうところに本多劇場が必要だと考えるか、本多劇場の、あのような考え方の文化が、どこの街においても必要だという感覚か。これによって随分違う気がしますね。道具として使うのか、そこからスタートして街を考えるのか。そのスタートの考え方を間違えるといつまでたってもダメなのかなあとは思います。
安田 その文化論に関していいますとね、私は浜っ子ですから、関内重視派というか、ノスタルジー派なんですよ。中学生、高校生はかえって西口の方が刺激的だと。大学生になると今度は、横浜はつまらない(笑)と、東京へ行ってしまうのですけどね。だから文化を、美術館とか劇場とか、狭い意味のそういう観点でとらえているとダメなような気がするんですけどね。
對馬 今おっしゃった、東京に行ってしまうということは重大なことで、これからの開発の考え方に絡んでくる話ですけれどね。
みなとみらい21をコンベンションシティとして開発させようというのならば、アフターコンベンションのエリアがないですね。このために伊勢佐木町や野毛、本牧、新横浜などを一生懸命やるわけです。それももう一回目を転じて西口というのを見ますと、既に相当な資本が投下されている。ですから西口をアフターコンベンション・エリアと位置付けての開発が非常に必要なのではないかと。駅を中心とした街でね。それで、東京に行かなくても、大人−若い大人がいい意味で遊べる場所に。今、ないんですよ。ですからそういう街をつくるために、今の西口・東口との関連において今後の開発の基本的な問題となるだろうと。
西口だけで多少潤いのある街をつくっていくとすると、鶴屋町2丁目。それから青木橋寄り。この方面が西口に残された…。
安田 フロンティア
對馬 北幸はオフィス、南幸の岡野町方面は今の物品販売、そうすると鶴屋町から台町のところに、これからの大人の遊べる場所という、その辺の開発をね。そしてさらに、それはみなとみらい21の開発のタイミングと合わせていかなければならない。だから、青木橋と平沼の問題、それに古河の跡地。そして今、相鉄で開発の進んでいる沿線の方までですね。今、東と西、こちらと海と山との間がみんな地下ですね。計画では今、市なども地下を考えておられるのでしょうが、鉄道の上をデッキができないかな、と考えますね。それで動線を変えてみる必要がある。今、全部地下の動線ですよね。それは夢物語かもしれないけれど、そんな形で西口を広げていく。この目的は、先程お話ししたみなとみらい21の国際会議へいらっしゃった後の受け入れ場所です。
安田 そこでリンクしていくということですね。アフターコンベンションを通じて。
對馬 それで、うちの旧本社ビルのところに24時間機能するものを考えたわけです。そうしたら、それはホテルなんですね。あの場所は、地下街で発展しましたからね。地下街というのは自然がないですね。空がない。朝も夜も全部一緒なんですよね。ああいう所は、早く店を閉める。単なる労働力の不足だけじゃなくて、朝から夜までは無理ですし、空がない。ですからやはり街を上に出しておく必要があるんですよね。
安田 これからはそうでしょうね。
對馬 街を地下にね。地下だけでは限度がある。鶴屋町とか岡野町方面には、幸いにして地下街がつくれないから、ちょうど地面、公園を。そして渋谷の公園通りのようなところっていうのは、どちらかというと帷子川ですか。埋め立ての上とか、あの辺かなと思うのです。今は南幸橋というのは、どちらかというと汚い街ですから、あの辺が綺麗になれば、すっかり変わって来る。鶴屋町の方面は、横浜地下街の持っておられる第2駐車場にまで上でやっていかなきゃならない。これは中長期的という形で一応開発していくのが一番いいのではないかと。ただそのときに、皆さんの共同事業になるわけです。今までうちのやってきたように買っては開発して…というのではなく。そのコンセンサスをどうやって取るか。
安田 それはやはり、リーダーシップというかイニシアティブみたいなものは…。
對馬 リーダーシップなしというより、必要ならば取るでしょうね。しかし、それによって権利を要求するものではありません。ちょっとキザっぽいですけど、それを明確にして。それは、企業としての面でどうなるかといえば、街がよくなれば、その中心的なデベロッパーは必ず良くなると思うんですね。そういう形で西口を広げるというようなことが再再開発ではないかと。そのときに、一番はじめに言われた横浜らしさというところが満足するかどうか分かりませんけれども、横浜にあって西口にないもの、それでいて皆さんが横浜を連想したときに西口に要求するであろうものを考えていかなければならないでしょうね。それが広い意味の文化でしょうね。
安田 西口5番街にセゾンが進出するという予定があるようですが、そのとき西口はどう変わるでしょうか。
對馬 流通でスタートした事業と鉄道でスタートしてきた事業では、根本的にノウハウが違うんですね。ですから鉄道を愛してくれるお客、セゾンを好きなお客、全く違うわけです。こうなりますと、これは大いに歓迎すべきですね。手を結んでやっていくべきです。掛け引きなく大賛成です。
安田八十五のトップシート対談:第4回
月刊誌「浜っ子」,1990年4月号, PP. 20-21
ホスト:安田 八十五 Dr. Yasoi YASUDA
1944年横浜生まれの生粋の「浜っ子」,現在(1990年時点)筑波大学社会工学系助教授
安田:『私は都市問題が専門で、それとハマっ子なものですから、最近いわゆる横浜らしさが消えている気がします。昔は最先端のものが横浜から発信されていたわけですよね。横浜の街自体も発信機能が衰退して来ていると思うし、街の活力も何か足りない。』
ゲスト:岩崎学園理事長,岩崎ともみ
岩崎学園理事長、(財)横浜市美術振興財団理事 横浜ファッション協会副会長・他
岩崎:『創立は昭和2年なんです。私の母岩崎春子が、東京の学校の帰りに横浜へ洋服の材料を買いに立ち寄るうちに横浜が好きになって、学校を卒業してからずっと横浜です。当時はファッションの良い材料は輸入品で、横浜でないと買えなかったのです。』
安田 現在山手にある岩崎博物館は、どういうきっかけで造られたのですか。
岩崎 あそこは元々がうちの母と住まいを造ろうと、たまたま土地を購入したんですね。そうしたら、そこがゲーテ座の跡地だったというのがわかりまして、それなら住まいは先に延ばして、当時ちょうど創立50周年の後だったものですから、それを記念してということと、たまたま横浜市からゲーテ座の研究をなさっていらした、名古屋大学の升本匡彦教授をご紹介頂きまして。やはりそういうものを残したほうがいいのではないかということで、ゲーテ座と服飾博物館という形になったわけです。
安田 あそこはいろいろな意味で、岩崎学園にとって非常にシンボル的な施設だし、ゲーテ座の跡地ということで、横浜の特に山手にとってもシンボル的なものですよね。
それではまずはファッション都市論のようなお話をお聞かせ頂きたいのですが。
岩崎 一番頭の痛いところですね。
安田 横浜の都市というのは本当にファッション都市なのかどうか、前から少し疑問に思ってまして。そういう意味では岩崎学園などが大いに広めて頂くといいなあと思ってるのですが。研究者から見ると、ファッションというのは、自己表現とか自己実現。これは人間しかできないわけですよね。だから人間の証明のようなものだと思うんです。それを今度もっと広く、社会全体、特に都市にそういう自己実現、自己表現というものがあるのではないかと。その辺実際にデザイナーとして、そして学校の理事長のお立場で、どのように考えておられるのか、ちょっとお伺いしたいのですが。
岩崎 そうですね。今、横浜はデザイン都市宣言をしてまして、横浜市をあげてそちらの方向に向かっています。これは横浜だけに限らず、日本中が今そういう方向に向いているわけですね。4月に日本ファッション協会が設立されます。これは日本全体のトータルのファッション協会なのです。横浜は、ファッション協会を創ったのが一番早かったのです。そのときも衣食住全てがファッションだという形で切り出したのですが、やはりある程度狭くとらえてしまったんですね。ですから銀行も入ってなかったので後から入ってきたし、横浜には本社機能はほとんどなく、全部支店ですよね。その辺が横浜の非常に苦しいところなのですが、今、やはり衣食住全部含めてという方向に向かっているわけです。今までは市の経済局と商工会議所と合同で運営しておりましたが、今度独立した横浜ファッション協会ができます。その中でどのように動いていくかというのは、やはりすごく難しいことなんですね。というのは、今横浜が明治時代のようにファッション発信基地とは言い難いということと、もう一つ、今ファッションというのは、東京ファッション、横浜ファッションなどという限られたものではないと思うのです。今は情報も早いし、この街でなければこのデザインはできないというものはないし、ですから、横浜として独自のファッションを打ち出そうとすると、やはり街並みしかないのではないかと……。
安田 うーん。
岩崎 そういう意味では横浜はロケーションもいいし、ファッションに向いている街並みを持っていますね。まあ限られた場所になると思いますが。そういうものをうまく活用しながら「横浜に行くならこんなスタイルで行きたいね」みたいなのが横浜らしさじゃないかなと思うんですね。それと今、横浜のファッション協会で毎年秋にデザインコンテストをやってますが、その応募者は全国から来ているわけです。その中で賞を取った人たちがこれからどんどん伸びてくれることを望んでいます。
安田 横浜市は、飛鳥田さんが市長のときから市役所の前などで都市デザインなどをやりだしたのですが。デザイナーとしては、横浜は街並みとして評価できますか。(笑)
岩崎 そうですね。横浜らしいというと月並みだといわれるのですが、やはり山下公園とか山手とか、あの辺というのは好きです。丘があって海があってと、起伏のすごくある街というのは、私はすごく好きなんですね。山手の道というのは全部坂なんですね。100年前から同じなんですよね。
安田 ところで、ご専門のデザインのほうから考えて、洋服などと都市とか街のデザインやファッションでは共通するものがございますか。
岩崎 それはやはり街があってのファッションだと思ってますから、これはすごくあると思うんですね。たとえばきれいな街だと汚い格好では歩きづらいというのが。よそから来る人たちも、横浜に行くのだからちょっとお洒落して行こうよとか、横浜の人たちも身綺麗にして街を歩くとか……。そんなようになっていくことが、横浜の街そのものがファッションだということになるのではないかと。
安田 東京より横浜のほうが、そういう意味では洗練されているとか。東京でも、六本木とか、遊ぶ場所がいっぱいありますが。
岩崎 今までは、たとえば飲食する場所が遊ぶ場所だったようですが、これからはそれだけじゃなく、散歩をする、何か観る、というものが遊びの一つになってくるのではないかと思うんです。そうなるとコミュニケーションもよく図れますし、人との対話がもっと楽しくなってくるのではないでしょうか。
安田 遊びに行くときは、どういうところに行かれますか。横浜は大人の遊び場が少ないと思うのですが。
岩崎 そうなんです。それが全然ないですね。
安田 横浜の東口から西口にかけてファッションのお店がここに来て急にワァッと増え過ぎて、結構東京のお店も入ってますし。そうなるとファッションで横浜らしさのようなものを求めるのはちょっと無理なのかなと思うのですが。
岩崎 横浜の西口にしても東口にしても、元町にしても半分以上は東京のお店なんです。そうなると東京も横浜もあまり変わらないですね。だからそれぞれがファッション意識を強く持って、目を肥やしていくということが、横浜のこれからのファッションなのではないかと。
安田 昔の横浜の女性はとてもお洒落だったのでしょうが、今、現代の横浜の女性はお洒落なのでしょうか。(笑)
岩崎 そうですね。結構お洒落な人は多いですけど。若い人はまだまだ無理だと……。若い人ってどこへ行っても同じなんですね。あれがやはり、今のリズムに合っているのでしょうね。